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公益財団法人農村文化研究所(遠藤宏三理事長)などが主催する第38回農村文化ゼミナール・第4回置賜未来塾が8月2日午後1時から、米沢市の伝国の杜を会場に開催された。今年は戦後80年の節目、「満蒙開拓ーそのとき、何がおきていたのかー」をテーマとした。
(写真右:100名を超える参加者が集まったゼミナール)
第一部は、基調講演として、筑波大学名誉教授の伊藤純郎氏が『満州に渡った女性たちー満蒙開拓青少年義勇軍と「大陸の母・姉」』を演題に、1時間講演を行った。
伊藤氏は、昭和13年から同20年まで行われた満蒙開拓青少年義勇軍が多い県として、長野県、山形県をあげ、送り出す前に、現在の水戸市に設立した内原訓練所で3ヶ月の教育をした。満蒙に送り出された青少年は約8万5千人で、その青少年の世話を行う保姆・寮姆が募集され、「大陸の母・姉」と呼ばれたことを紹介。
(写真左:基調講演を行う伊藤純郎氏)
応募資格は、25歳以上45歳未満の寡婦、及び独身者。身体強健、性状公正、意思鞏固(きょうこ)な人が選ばれた。月給は月額60円以上、3カ年の契約だった。渡満した保姆・寮姆は200人以上だが、正確な人数は不明だとした。
「野郎ばかりの世帯に潤いを与えてくれた」という。しかし、戦後、引き揚げに際して苦労した。「大陸の花嫁に比べて、手記や回想録が少ない」と述べた。
第二部では、4人のパネリストが問題提起を行った。庄内地域史研究所所長の三原容子氏は、「満蒙開拓の父」と言われる加藤完治と山形県立自治講習所について報告。
(写真右:第二部におけるパネル討論参加者)
元小学校教諭の小田悟志氏は、満蒙開拓団や満蒙開拓青少年義勇軍の山形県内における送出数を当時の市町村別の詳細なデータを紹介した。
山口邦子氏は、紙芝居を見せながら、自らが現在の北朝鮮にあった町羅津に渡った当時の生活や戦後、コロ島から舞鶴に引き揚げた時の様子を体験者の口を通して生なましく語った。
元新聞記者で、ライターの佐藤良一は、冒頭、戦後10数年後に加藤完治が青少年を満蒙に送り出した理由を述べている講演を聞かせ、山形県が所蔵する満蒙に関する古文書の発掘についての調査経緯を報告した。その後、総合討論に移り、会場からの質問が寄せられた。
最後にコメントを行った神奈川大学名誉教授の佐野賢治氏は、「歴史に何を学ぶのか。満蒙開拓は、国の移民政策として進められた。しかし、現在のパレスチナの地にユダヤ人が入植して争いになっているように、(満蒙にも)先に住んでいた人がいたことを忘れてはならない。今日のゼミナールでは課題として取り上げられていなかった。」と述べ、後から来た人(日本人)が満蒙に先に住んでいた人たちにどう対応したのかも今後のテーマとなるとした。