![]() |
世界の農業に一大朗報、凍霜害から作物を守る方法の発見・発明!
令和5年9月28日 特許登録「遮光による凍霜害の回避法」
鈴木 嘉光さん(上山市楢下)
【はじめに】
凍霜害による農作物への影響と対策に関する研究は、戦前から長い歴史がある。従来から低温の程度や遭遇時間と関係すると言われてきたが、その対策は夜通し、火、水、風を使用して、凍霜を防止するといった形で現在に至っている。上山市楢下に住む鈴木嘉光さんは、長年不明だった凍霜害の原因を発見、凍霜害から農作物を守る方法を特許出願、令和5年9月28日に登録され、世界にその内容が発信された。この恩恵は、全世界の農業生産に一大朗報をもたらすものと考えられる。
(取材 米沢日報デジタル/成澤礼夫)
一、石田三成の家臣が現上山市楢下に逃れて帰農
令和3年4月、上山市楢下に住む鈴木嘉光さん(63歳、以下嘉光さん)は、米沢市丸の内一丁目にある松岬神社で開催された米澤直江會例大祭に出席した。この神社は、米沢藩の初代藩主上杉景勝とその執政直江兼続、第9代藩主上杉鷹山などが祀られている。鈴木さんはその年に直江兼続を顕彰する米澤直江會の会員になった。
嘉光さんの家には、江戸時代に書かれた先祖由来書が残されている。それは『上山市本庄郷土史』にも書かれてある歴史である。それによれば同家の先祖は源氏足利持氏の末裔とされ、豊臣秀吉の政権時代には石田三成の家臣になった。鈴木加賀(賀嘉)という人物で、三成に仕える前は誰に仕えたかは不明。三成からは500石を禄を与えられた。
(写真右=397年前先祖が戦った関ヶ原を訪問)
秀吉が死ぬと、五大老の一人、徳川家康は申し合わせに反し、自らの子女を武将に嫁がせ姻戚関係を広げ、天下取りの野心を剥き出しにした。そこで三成は家康を排除しようと豊臣恩顧の大名を集め、慶長5年(1600)9月、関ケ原の地で家康の東軍と三成の西軍が激突する。6時間あまりの激戦の結果、はじめ西軍に属していた小早川秀秋の裏切りによって、東軍の勝利に終わり、三成は京都で小西行長と共に斬られた。
加賀は民間人を装い身を隠しどうにか生き延びた。そして、関ヶ原の戦いから14年後、今度は大阪冬の陣、同夏の陣が起こる。家康が豊臣家を滅ぼしにかかった戦いである。この時も加賀は豊臣方の召しに応じたが、戦いは家康の勝利に終わり、加賀は再び敗ぶれて、逃げのびた先が奥州の楢下村(現上山市楢下)だった。土着して帰農した。
同家の先祖由来書にはその経緯を記している。
「忠臣は二君に仕ひすと、二君に依る焉り天下の士と面遇せんやと長沼信濃、大沼作右門、駿河将監などと共に逃れ、奥羽に逃れて落ち着いた。加賀は楢下に、大沼は宮脇に、長沼はどこか不詳、駿河も不詳、衣を鎧から野良着に変えて、田畑に尽くし、ついに共に大農となった。時に元和8年卯月10日」と書いている。加賀とともに逃れてきたのは、他に3名がいたことが書かれてある。加賀は天性とも言える才知に優れ、文武に通じていたという。81歳で病死した。
嘉光さんは米澤直江會例大祭が終わった時に大きな決意をしていた。
二、明治以降も農業を継続、鈴木家から教育者が輩出
江戸幕府は大名に参勤交代を命じた。それに伴い、日本各地に本陣、関所、宿場町が形成される。楢下村は上山藩領で、羽州街道の宿駅として賑わった地。二代鈴木嘉兵エ(賀位)の時代、元和8年(1622)4月、楢下宿に問屋を開いた。鈴木家はこれにより封を広めることになった。寛永2年1月には皆沢村に瑞雲山龍谷寺が創建されたが、この時の開基檀徒は鈴木嘉兵エ家(女当主)だった。三代嘉兵エ(勘解由)代に二つの土蔵を建造し、領内に多くの田畑を持つほど隆盛した。
江戸時代、天保9年(1838)の戸数は87軒、人口が517人が記録されている。現在も茅ぶきの屋根、各宿屋の屋号、脇本陣、問屋、御宿札などが現存し、観光名所になっている。明治に入り、初代山形県令三島通庸によって掛けられた石橋も2つ現存している。今から150年余り前、徳川幕府の治世が終わり、明治の時代に入った。全国の城は廃城となり、関所が廃止されて通行は自由になり、それに伴い楢下のような宿場町の様相も大きく変化した。
明治初期、嘉光さんの家には3人の子供がいた。長男は初代山形県令三島通庸時代創った山形高等師範学校1期生で卒業。次男は養蚕の先生となったが、日露戦争の際、明治38年(1905)の奉天会戦で戦死した。三男は東京農業大学の前身である(財)大日本農会の実践農場に入学。「日本農業近代化の父」と言われる横井時敬と一緒に撮った写真も残されている。
三人の子供を育てた父はとりわけ教育熱心だったが、楢下村内に私財を投じて「嘉平橋」をかけるなど、篤志家でもあった。
三、令和3年4月11日の凍霜害で農作物に大きな被害
嘉光さんは昭和58年に山形大学農学部(鶴岡市)を卒業後、さくらんぼ、ラフランスなどの果樹生産の研究に、かれこれ40年余り従事してきた。
そんな嘉光さんの人生にとっても、令和3年4月11日早朝の出来事は生涯忘れることができないものとなった。ちょうどさくらんぼの花芽はほころぶ頃で(開花直前)、もっとも凍霜害が発生しやすい生育ステージであった。
その時に山形県全域を凍霜害が発生した。多くは果樹で大きな被害が発生した。特にさくらんぼ園は未曾有の被害を受けてしまった。まさに50年か、100年に一度とか言われる被害である。山形県が同年7月21日に発表した被害状況は、山形県内の29市町村で果樹が4071haで124億2千万円となった。果樹の被害はメシベの枯死によるものであった。
霜害は、「サイレント・キラー」の様なものである。それは無風の中で起こり、実際に花芽を剥いてみないとわからないからだ。4月12日、嘉光さんは、上山市楢下にある自分の畑のさくらんぼを見に行き、花芽を採取して娘さんと調査を行った。やはり、90%を超える被害を受けていた。
ところがいざ開花の時期になると不思議な光景を目にした。実は前年秋に体調不良で入院していたため、さくらんぼ園の防風用ブルーネットを巻き上げられないままにあった下方の畑のさくらんぼ園は、真っ白な花を咲かせたのである。
(写真右=巻き上げられないままにあった防風用ブルーネット)
ある農機具メーカーの職員からは、朝日がよく当たるさくらんぼ園地で、カイガラムシ被害で落葉せずに越冬したさくらんぼ園は多く着果していたという話も伝わってきた。嘉光さんのこの時の気づきは、後に大発見、大発明につながる根拠の一つとなる。
嘉光さんは、楢下でさくらんぼ作り60年以上の母親と議論をした。母親は、「楢下に大きなバイパス道路ができたことで風通しが良くなり、それが原因で下方の畑のさくらんぼは助かったんだろう」と話したが、嘉光さんはその話に合点がいかなかった。そのような条件の場所は、もっと他に沢山あるはずだと思ったからだ。近くの農家の人々は、西風の影響で霜が飛ばされたからと言う人もいた。
(ブルーネットが無いものは全滅(左上)、ネットを上げずのものは満開に(左下)2021年4月下旬)
霜害で分かっていることは、とにかく気温が氷点下以下になり、無風で花芽に霜がついた時に起こるというようなことだったのだ。これは人類が農業を始めて以来、解決できていない課題だった。そのため、農家の人たちは、畑に大きな扇風機を配置したり、夜通しで火を起こして、さくらんぼの花芽の外気温を下げない工夫をしてきた。その対策には大きな費用がかかり、また農家の人たちに長年にわたり、大きな負担を強いてきた。
四、朝日の赤外線による「ヒートショック」が原因で細胞破壊と仮説
嘉光さんは凍霜害発生からしばらくして、東京に住む叔母夫婦がお世話になった元大手総合電機メーカーの研究開発部門で働いていたという87歳のSさんに話をしてみた。その方はパソコンの研究開発をされていて物理現象に明るかったので、Sさんとさくらんぼの凍霜害の状況を話し合いながら原因を探った。
太陽光は42%が赤外線、10%が紫外線、残りが可視光線他である。地球が暖かいというのは、太陽光の赤外線が温めてくれるから。2人は凍霜害は、「花芽が凍ってその細胞が破壊されるのではなく、凍った細胞が赤外線によってヒートショックを起こし破壊されるのではないか」という仮説を立てた。ここから嘉光さんの一連の実験が始まった。
日陰の場所の花芽は助かったことから、「佐藤錦」のさくらんぼの枝を使用しての実証実験を行った。同年3月10日夜、翌日の低温情報が入った。枝の花芽を外で凍結させた後、朝日に当てた枝と日出前に日陰にする枝に分けて比較した。その結果は、朝日に当てた場合は66%(56/85)、日陰にした場合は、0%(0/107)の破壊という結果を得た。朝日の赤外線によるヒートショックと言って間違いない結果だった。
(写真右上=朝日を浴びせた嘉英2020と隠した佐藤錦(右下)は害が少ないが、浴びせた佐藤錦(右上)は多い)
五、凍害抵抗性が大、新品種「嘉英2020」
鈴木嘉光さんが考えた凍霜害の学問領域『物理学』(これまで太陽光の赤外線が考えられてこなかった)
嘉光さんのさくらんぼ園では、突然変異により「体細胞不定胚:ひこばえ」から育てた新品種のさくらんぼの木が育っていた。味は佐藤錦よりも甘い。嘉光さんは農林水産大臣に申請し、「嘉英2020」という名前で令和4年1月17日付け新品種登録証をもらった。
そして、「佐藤錦」と「嘉英2020」で、朝5時半の気温がマイナス3度で前回同様に実証実験を行った。すると朝日を浴びせた「佐藤錦」は被害85%、「嘉英2020」は被害0%という結果を得た。さくらんぼの花芽の細胞膜は、約100万分の5ミリの厚さでどの品種もほぼ一定だが、「嘉英2020」は細胞膜組成の主成分である飽和脂肪酸が、「佐藤錦」他の10倍以上多いとの学説もあり、電磁波(赤外線)が通りぬけにくいことが考えられる。
さくらんぼの品種の中で、「嘉英2020」が凍霜害に対して高い抵抗性を持っていることが判明、理論と実験結果に矛盾はなかった。
六、大発見から大発明に、特許庁に特許を申請
嘉光さんは、凍霜害の原因から対策までのストーリーがきちんと整理できたことから、特許庁にこの大発見を「特許」として申請することを考え、令和3年9月から書類の作成を開始した。
申請書類は1か月たらずで完成したが、手書きで行って提出したところ、年間何十万件も出願される特許や実用新案の中で、手書きは極めて珍しかったようだ。様式の中には、発明者と出願者の住所、氏名を記載しなければならないが、急いで書いた嘉光さん、発明者の欄は書いたものの、出願者の欄を書き忘れてしまったという。翌日に気づいて修正を行うというハプニングがあった。
日本の商標登録制度は、大蔵大臣、首相を歴任した高橋是清らが若い時に2年半の歳月を費やしてまとめたもので、明治17年6月に商標条例が発布、次に発明専売規則(現在の特許)が明治18年4月に発布されたという歴史がある。
嘉光さんは、はじめ「さくらんぼ」に限定した範囲で、「サクランボのネット被覆による遮光栽培法」と考えたが、その他の果樹も適用できることを確認したことから、発明の範囲を拡大し提出した。
特許請求の範囲は、
「早春、果樹の花芽が膨らんだ頃に、無風で強い放射冷却により花芽が凍結してしまった朝、日の出前までに樹体の東側に太陽光遮へい物を立て朝日の直射光を遮って日陰を創出し、その内で凍結した花芽を外気温上昇に従って、ゆっくり解凍すれば凍霜害は回避される。」(原文)
というものである。
(写真左=鈴木嘉光氏の特許登録証)
特許庁との間では二度の拒絶を経て、弁理士に依頼、手続補正書を何度か提出した。そしてついに、令和5年9月28日付け特許第7357381号「遮光による凍霜害の回避法」の特許証が、嘉光さんと奥様の英美さんの結婚記念日に、嘉光さんの手元に届いた。(特許庁ネットJ-platpatにも掲載)
七、世界の農業生産にどう活かしていくか
「遮光による凍霜害の回避法」の特許証を手にした嘉光さんは、「特許の取り組みは、S先生(87歳)から強く勧められたもので、自己研鑽のつもりで、楢下にある実家で早朝にプライベートで作成しました。この度、当発明が日本政府の管轄下で、永遠にインターネットで世界に公開されることになったことは、うれしくもあり、驚きでもあり、運命を感じています。また、石田三成の敵である家康は、死後に東照大権現となったことも私の発明との不思議な因縁を感じています。(笑)」と述べている。
(写真上=これからも世界の農業生産に貢献したいと考えている鈴木嘉光さん)
そして、奥様の英美さんにも深く感謝している。文禄・慶長の役で、1592年4月、石田三成が秀吉の名代として、朝鮮出兵に赴いたときに、緒戦の大激戦が行われた場所が、朝鮮半島中南部に位置する忠清北道忠州だが、英美さんはこの町の出身である。
石田三成の家臣だった先祖の縁を感じると嘉光さんは述べる。その英美さんの強い勧めがあり「嘉英2020」の新品種登録が実現し、そこから「遮光による凍霜害の回避法」発明の根拠となる基礎データが得られたからである。
(写真右=新品種として登録された Prunus avium(L.)L. 嘉英2020 令和4年1月17日付 登録番号第28876号)
農業技術に関しては全くの素人である筆者だが、急激な人口増加、温暖化による食料生産の先行き不安など課題が多い世界情勢の中で、今回の発見と発明は、農業生産の一大革命をもたらすものとなることは疑う余地がない。時間の経過と共にこの技術の知見が世界に広がれば、その恩恵は計り知れないほど大きなものとなるだろう。
グーテンベルクの印刷機、ジョージ・ワットの蒸気機関、ノーベルのダイナマイト、そしてインターネットの発明など、私たちの身の回りには、先人の発明した技術が溢れている。「遮光による凍霜害の回避法」の特許は、地球と太陽の関係、とりわけ、宇宙からくる光(熱)を主因とする「ヒートショック」現象を認証したもので、世界の10大発明に勝るとも劣らない大発明であると思う。この功績は「火の発明」と同等であり、人類の記録に永久に残るものとなるだろう。山形県人として、誇りに感じるものである。
(本記事は、米沢日報 令和6年1月1日号より転載、写真を一部追加した)