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(1897-1973)
明治30年4月1日、我妻又次郎・つるの長男として米沢市鉄砲屋町(現中央3丁目)に生まれる。大正3年、米沢中学卒業後、第一高等学校に首席合格、同6年、東京帝国大学法科大学に進む。大正8年、高等文官試験行政科試験合格。大正11年同大助教授、同12年6月、文部省留学生として民法研究のため欧米留学。同14年12月、帰国。同15年4月鈴木緑(東洋音楽学校創設者鈴木米次郎四女)と結婚。昭和2年3月、教授昇進。昭和20年、戦後最初の東京帝大法学部長に就任。昭和22年新制大学準備委員会委員。貴族院議員。日本学術会議副会長、昭和32年、定年退官。昭和39年、文化勲章受章。昭和39年、米沢市名誉市民。昭和41年、興譲館高校に400万円で「自頼奨学財団」興譲小学校には「自頼文庫」を設立した。昭和48年10月21日死去。享年76歳。法学博士。
米沢中学校英語教諭の父、興譲小学校訓導の毋を持ち、我妻榮は抜群の学業成績で明治期「米沢中学四秀才」の一人に数えられる。文部省派遣の欧米留学中、関東大震災で羅災した東京帝国大学図書館の再建のため、高柳賢三教授の下に図書購入に奔走した。戦前は満州国民法草案作成に関わる。昭和22年、新制大学準備委員会委員として南原繁総長の片腕となり、新しい大学作りに尽力。貴族院議員として、農地、鉱業、教育など各方面にわたる戦後の立法に関与、家族制度廃止を軸とする民法の改正では中心的な役割を果たした。
昭和35年6月、一高・東京帝大時代の親友である岸信介首相に対して、朝日新聞紙上で「岸信介君に与える」と題して寄稿、「政界を退き、魚釣りの日を送れ」と述べ日米安保条約をめぐり対立した。
小学校時代の恩師赤井運次郎に「弟子の礼」をもって謝恩を尽くしたが、これは上杉鷹山の細井平洲に対して捧げた親愛の情と敬師の美徳を感じさせる。母校の米沢興譲館高校80周年記念式では、「東北人は化学肥料的な即効性を期待せず、長い年月をかけてあたりの土質を変える堆肥型の人間を目指せ」と謙虚さの必要を諭している。我妻榮の著した民法講議8巻は、今日でも法曹に携わるもののバイブル的存在の書となっている。現在、生家は「我妻榮記念館」
として公開されているほか、「米沢有為会」「先人顕彰会」の事務局が置かれている。
(参考文献)◇先人の世紀【後編】(松野良寅)◇興譲館人國記(松野良寅)◇米沢百科事典◇米沢藩(小野榮)