寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)、『男たちの夢—歴史との語り合い—』
(同)、『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)、『桔梗の花さく
城』(鳥影社)、『日本城紀行』(同)、『続日本城紀行』(同)、
『城と歴史を探る旅』(同)、『続城と歴史を探る旅』(同)、『城門を
潜って』(同)
私は多摩川の支流である浅川脇の遊歩道を、一時間ほど歩くのを日課としているが、2017年4月のある日、浅川橋の下をくぐろうとした瞬間、進行方向左手に、何本もの桜が見事に咲き誇っているのを見つけてふと足を止めた。あまりにもきれいなので、ちょっと、立ち寄ってみたくなった。そこで、遊歩道から一般道路に上がると、そこは、長い塀がつづく寺であることが解った。塀に沿ってしばらく行くと、"浄土宗宝樹山極楽寺"と刻まれた石碑が立っており(掲載した最初の写真参照)切妻屋根、瓦葺きの山門(2番目の写真参照)も見えた。
—これは、かなりの名刹に違いない。
そう感じた私は、山門を潜って、石畳みの続く道を、本堂へ向かって歩きだした。満開の桜が眼にしみる。立ち止まって、しばらくその光景を見上げていたが、視線を下へ向けると、左側に解説板が設置されてあった。気になって読んでみると、
「東京都指定旧跡・玉田院(ぎょくでんいん)の墓、俗名を小督(こごう)といい、甲斐(今の山梨県)の武田信玄の五男仁科盛信(にしなもりのぶ)の娘」
とあった。とたんに、私の胸はどきんと鳴った。
—なに、あの仁科盛信の娘の墓が、この八王子にあるというのか?
そう考えると、もう、ウォーキングどころの話ではなくなってしまった。急いでポケットからメモ帳とボールペンを取り出すと、そのつづきを書き写すことにした。
「彼女は天正(てんしょう)七年(1579)仁科盛信の居城である信濃国高遠城(今の長野県上伊那郡高遠町)で生まれたとされる。天正十年(1582)織田信長による甲州攻めの戦禍をさけるため、叔母に当る松姫とともに、八王子へと逃れてこの地で暮した。のち、関東の代官頭となり、八王子に陣屋を構えた武田氏の遣臣大久保長安の庇護を受け、寺を寄贈され、小督は出家して玉田院と称し、庵を玉田院という寺にした。慶長(けいちょう)十三年(1608)病のため二十九歳で没した」
そこまで書き写した私は、手を休め、もう一度満開の桜をしみじみと眺めた。すると、いつか訪れたことのある、高遠城の本丸にかかる桜雲(ろううん)橋の姿が脳裏によみがえって来た。
先っきも述べたように、この小督は仁科盛信を父に、武田信綱(のぶつな=信玄の弟)の娘を母としてこの世に生を受けた。秀基(ひでもと)という三つ歳上の兄がいたという。小督と名付けられた彼女であったが、父や母、それに侍女や近習の若者たちの間では、"小栗(おぐり)さま"と呼ばれるようになった。それだけ愛くるしい顔立ちをしていたのだろう。彼女は兄とともに、何不自由なくすくすくと育てられて行った。けれど、天正十年の春になって、しばしば使者が高遠城に到着するようになった。
「織田信長の大軍が…」
と一人の使者が、大声でそう叫んでいるのが小督の耳にもはっきりと聞こえた。
「信濃の伊那口より進攻、武田の支配下にある大島城(下伊那郡)飯田城、松尾城(共に飯田市)を次々と攻め落としました!」
小督にはその言葉の意味するものが何であるかは、十分に飲み込めなかったが、自分たちの身に、何か大変なことが迫りつつあることだけは、本能的に感じられたのであった。
「小栗どの」
不意に通称で呼ばれた小督が顔を上げると、そこには叔母に当る松姫の姿があった。彼女は自分の父盛信の妹(信玄の四女)である。母親は甲斐石和の里(いわさのさと=今の山梨県東八代郡)に居住する油川信友(あぶらかわのぶとも)の娘である。そして松姫は永禄(えいろく)四年(1561)の生まれであったから、小督よりも十八歳年上ということになる。しかも通常は、武田家の現当主勝頼(父盛信のすぐ上の兄)の居城新府城(山梨県韮崎市)で暮していたから、そんな叔母がなぜ自分の眼の前にいるのか、小督にはよく理解出来なかった。だが次の瞬間、近頃の城内のあわただしい動きと、何か関係があるのかも知れないと、小督は思った。案の定、松姫はこう語りかけて来たのである。
「この高遠城にいては、あなたの命が危ないのです。ですからこの私と一緒に、これから新府城へ参りましょう」
「で、でも…」
と、小督は小さな声でそういった。彼女がもう少し大きな女の子であったなら、この時、眼の前にいる叔母の眼の中に、悲しげな、そして何ともいえない淋しげな表情が浮かんでいるのに気づいたであろう…。けれど、まだ四歳(当時は数え)の小督には、それに気づく能力はまだなく、ただ、相変わらず美しい叔母さまだな、そう思っただけであった。
「でも何です?」
「でも…、お父さまやお母さまはどうなさるのです?この城に残るのでしょう?だとしたら、私もこの城に残ります。だって、二人と別れ離れになるのはいや」
「そうでしょうね」
松姫は軽く微笑した。
「私には、あなたの今の気持ちがよく解ります。出来たら私もそうしてあげたい。でもね、小栗どの」
そこで松姫は言葉を切り、悟すような声になってそのあとをつづけた。
「よくお聞きなさい。いいですか、これはあなたの母上が、泣き泣きこの私に頼まれたことなのですよ、小督の行く末をそなたに頼むと…」
「お、叔母さま」
小督はこみあげて来る感情を押え切れず、思わず、松姫の体にしがみついた。すると松姫は小さな姪の両肩に手を当てがうと、柔らかな声でいった。
「心配しないで大丈夫ですよ。あなたは、この私がしっかりとお守りしますからね」
「解りました」
小督はコクンと頷いた。両親と別れるのは辛い。けれど、この大好きな叔母さまと一緒に暮らせるのなら、そう必死になって、自分にいい聞かせたのである。
こうして、同年二月十二日早朝、小督は松姫と供に、新府城を目ざすことになり、やがて、彼女の新たな生活が始まった。城内には小督にはいとこに当る勝頼の娘、貞姫(さだひめ)や香具姫(かぐひめ=彼女は養女といわれている)も生活していたが、お互いの歳が近いこともあって、すぐに仲良くなり、一緒に遊んでいるうちに、父母との別離の悲しさも少しずつ薄らいで行くようであった。しかし…、であった。小督と松姫が勝頼を頼って新府城へ移ってから一ヶ月も経たないうちに、悲しい知らせが届けられた。三月二日、高遠城が信長の嫡男信忠を総大将とする織田軍の猛攻撃を受け、城主仁科盛信が自刃して果てたという。二十六歳の若さであった。
—そうなると、きっとお母さまも、お父さまのあとを追われたに違いない。
そう考えたとたん、小督の両眼から、どっと涙があふれ出した。
「小栗どの、あなたの今の辛い気持は、そのまま、私の気持でもあるのです」
そういって松姫は、そっと小督の手を握りしめた。同時に、二人の眼が合った。そして松姫の眼が、真赤に充血しているのを小督は見た。瞬間、はっと思い当った。
—そうだった、敵の総大将信忠どのは、かつて、この叔母さまの婚約者であった…。
それは事実である。永禄十年(1568)十一月、信玄の四女松姫は、信長の嫡男奇妙丸(のちの信忠)と婚約した。駿河(今の静岡県)への進攻を実現するためには、尾張(今の愛知県)の信長と誼(よしみ)を通じておいた方が得策、そう考えて、信玄の方から申し入れた縁談であった。一方の信長にしても、"甲斐の虎"と称され、当時戦国最強を誇る武田軍団を率いる信玄とは、事を構えたくはなかったから、この縁談はすぐにまとまった。未来の良人との甘い生活に淡い期待を抱く松姫。だがそんな松姫の思いは、無惨にも打ち砕かれてしまったのである。というのも、元亀(げんき)三年(1572)十二月二十二日、遠江(とうとうみ=これも今の静岡県)にある浜松城北方の三方ヶ原で、信玄は三河(今の愛知県)の徳川家康と干戈(かんか)を交えるが、その時、信長は家康を応援すべく、三千の兵を派遣した。これに激怒した信玄が、信長との断交を一方的に宣言してしまったのである。以降、この両者の友好関係は修復されることなく、天正三年(1575)五月二十一日に行なわれた"長篠・設楽原(したらがはら)の戦い"で大惨敗を喫した武田軍は、いよいよ窮地に追い込まれてしまっていたのである。松姫はかつて武田家の若い家臣たちの間で、
「松姫さまと弓矢の誉れと、そのどちらかを選ぶかと聞かれたら、誰もが、たちどころに弓矢を折り捨てるであろう」
そういわれたほどの女性であった。それほどの叔母の悲痛な表情を見て、小督の胸はきゅっと締めつけられた。
「叔母さま…」
小督が何かいいかけた時、ふいに二人が今居る部屋の襖が開いて、当主勝頼の正室、北条夫人が顔をのぞかせた。名前が示す通り、彼女は小田原に本拠を構える、北条氏四代氏政(うじまさ)の妹で、五年前の天正五年(1577)一月二十二日に、勝頼の二度目の妻として輿入れして来たのである。北条夫人を見て、あわてて平伏する松姫、それに習うように小督も、畳の上に両手をついた。そのしぐさがいかにも可愛らしかったのであろう、北条夫人はほほえみながら、ゆっくりと二人の前に腰を降ろした。
「本来ならば、当主の勝頼さまが直接お話なさるべきなのですが…」
そこで北条夫人は言葉を切り、一呼吸入れてからつづけた。
「しかしながら殿は今、信濃の上原城(長野県茅野市)へ参って行って留守(実際は木曽義昌の謀反を聞いて、急いで出陣して行ったのだが、さすがに二人の前ではそれをいいそびれた。というのも、義昌は信玄の三女万里姫を妻としており、彼女の母は松姫と同じ油川氏であったからである)そこで、殿に変って私が話をするのですが」
「…」
「すでに、高遠城が落城したことは、耳になされたと思いますが」
その時ちらっと、小督の眉が動いたのを北条夫人は見た。そこであわてて、
「でも、盛信どのの最後は、それはそれは見事なものであったと聞いております。勝頼さまも、よくぞ盛信、最後までこの勝頼のために戦ってくれた。改めて礼をいうぞ、そうおっしゃって、私のいる前で涙を流しておいででした」
小督の体が小刻みにふるえ、松姫がその小さな肩にそっと両手をそえるのを北条夫人は見た。
「そして、敵の大軍は間もなく、この新府城へも押し寄せて来ます。そこで私から、いや、殿からこれは松姫どのへのお願いですが」
「…」
「どうぞ一刻も早く、小督どの、それに勝頼さまのお子である貞姫どの、香具姫どのともども、この城からお逃げ下さいませ。むろん護衛の者として、家臣の志村、馬場などを始めとして、屈強な若者たちを十人ほど、侍女も同じく十人ほどをおつけしますから、どうぞすみやかに、武蔵国へお逃げ下さいませ。幸い武蔵国はわが実家、北条の支配下にある土地ゆえ、そこまで逃げればまずは大丈夫」
「解りました」
松姫はそう答え、自分より二歳ばかり年下の北条夫人をじっと見た。
「勝頼さまの二人の姫、そしてこの小栗どのの身は、私が命にかけてお守りしますから、どうぞ、ご安心下さいませ」
こうして松姫と小督を含む幼児三人は、屈強な若者や、侍女たちに守られながら、逃避行を始めたのである。新府城のある韮崎宿から甲州道中(現在の甲州街道)を東へ向かって進んで行き、甲府から一里半(約6キロメートル)ほど離れた地点にある石和の里(この里の東油川は、松姫の生母の出生地である)を経由して、さらに一里半先の栗原の里(山梨県)にある開桃寺(現海島寺)に着いて一泊した。この寺の開基は信玄の伯父であったから、その縁を頼ったものと思われる。そして、松姫、小督らの一行は次の日、開桃寺を発つ予定でいたのだが、伊那口から甲斐へ進攻して来た織田軍の勢いはすさまじく、連日、武田勢惨敗の噂が、この栗原の里にまで伝わって来るようになった。そこでしばらく当地で息をひそめて、情況を見守っていたのだが、いよいよ危険が身近に迫って来たことを知って、栗原の里を逃げ出し、上於曽の里(かみおぞのさと=塩山市)にある向獄寺(こうがくじ)へと移って行った。この寺も信玄の八代前の甲斐国守護武田信成(しげなり)の開基であった。一行はこの寺で一泊したのち、和田峠を経てついに武蔵国横山領(現東京都八王子市)にたどりつくと、しばらく金昭庵(きんしょうあん=同市上恩方町)に寄寓したのち、心源院(同市下恩方町)へ身を寄せたのである。ほっとする一行。だが松姫はやがて、かつての自分の婚約者織田信忠が、京都二条御所で自刃して果てたことを知った。
三月十一日、天目山田野(てんもくざんたの)で勝頼を死に追いやった信長であったが、それからわずか三ヶ月後の六月二日、今度は自分自身が、家臣の明智光秀によって殺されてしまう運命にあった。信忠はその父に殉じたのである。
—実家の武田家は滅亡、かつての婚約者もすでにこの世にはいない…。
世の中のはかなさを感じた松姫は、心源院の僧舜悦(しゅんえつ)に嘆願して髪をおろして信松尼(しんしょうに)を名乗った。この心源院は、八王子城主の北条氏照(小田原氏三代氏康の子、四代氏政の弟)の一族が、みな熱心に帰依していたから、八年間信松尼や小督たちはその地で、安穏に暮すことが出来た。けれど、天正十八年(1590)の六月、頼りとする北条氏は、豊臣秀吉によって滅ぼされてしまった。後楯を失った信松尼はそこで、上由井領の御所水の里(八王子市台町)に粗末な草庵を建て、そこで自立の道に踏み切ったのである。幸い幼い頃から見覚えていた絹を織る技術を彼女は習得していたから、蚕を飼い、糸をつむいで織物作りに精を出した。さらに、近所の子供たちを集めて読み書きを教え、(その中には当然小督たち三人の姫も含まれていたのであろう)生活の糧としたのである。
信松尼の建てた草庵のあたりには、こんこんと清らかな水が流れ、かなり大きな沼もあった。その沼の廻りにはかきつばたが数多く自生し、つつじなども植えられていたから(そこで誰いうことなく御所水の里と呼ぶようになったという)幼い子どもたちを育てるには、恵まれた環境にはあった。けれど、三人の姫たちは日毎に大きくなって行くから、暮しは決して楽ではない。そこで信松尼は、朝から晩まで働きつづけた。
—おいたわしや。
新府城からずうっとつき従って来た侍女たちは、隠でそうささやき合った。
—世が世なら、名門武田家のお姫さまであらせられるのに…、その方が、こまねずみのように毎日働いておられる。
同時に彼女たちは、かつて武田家の若い家臣たちが、
「弓矢を捨ててでも、誰もが松姫さまを取るであろう」
そういっていた本当の意味が、始めて理解出来たといって良かった…。
こうした信松尼のまじめな生き方はやがて、北条氏滅亡後、秀吉から関東の領土経営をまかせられた、徳川家康の耳にも入るようになった。
「これこそ婦人の鑑である」
そう感じた家康は、八王子の代官に任じた大久保長安に命じて、その陣屋にほど近い、柚木(ゆぎ)上野原の里(八王子市台町)に大きな寺を建ててやることにした。それが3番目の写真で示した信松院である。こうして、生活が楽になった信松尼は、三人の姫たちを立派に育てあげ、勝頼の遺児貞姫は、前(さき)の将軍足利氏の庶流である宮原家(栃木県足利市)に嫁ぎ、香具姫は磐城平内藤家(福島県いわき市)の正室に迎えられた。しかし、幼いころから体が弱かった小督は結婚するのをあきらめ、大久保長安に草庵を建ててもらい(武田氏の旧臣である彼から見れば、信玄の娘や孫は、まさに雲の上の存在であった)しばらくそこで暮すが、やがて、そこから西北一里半の地点にある法蓮寺(ほうれんじ=八王子市川口町)へ出家して生弌尼(しょういちに)という法名を授けられて、亡き父母の霊を供養する日々を送った。『新編武蔵風土紀稿』にも、
「天正年中甲州武田氏の女が尼となって当寺に住み、志村大膳と馬場刑部の家臣が従った」
とある。しかしながら、やはり生命力は弱く、慶長十三年七月二十九日、二十九歳の若さで帰らぬ人となってしまったのである。その死後、生弌尼がしばらく暮していた草庵は、遺言によって寺院となり、彼女の戒名"玉田院光誉睿室貞舜尼"にちなんで玉田院と名付けられた。また、自分より十八歳も若い生弌尼の死は、信松尼には正直いってこたえたであろう。小栗どのと呼ばれ、愛らしかった姪の幼な顔が、今でも信松尼の脳裏には鮮明に焼き付いている。
「叔母さま、叔母さま」
と、まるで本当の母親の如く自分を慕ってくれ、出家後もしばしば、この寺へ立ち寄ってくれた彼女。
—でも、その笑顔も清らかな眼も、もう二度と見ることは出来ない…。
そう思ったとたん、信松院の心は締めつけられた。だが彼女は、唇をきつくかみしめて首を振った。
—悲しんでばかりはいられない。私には、まだまだやらなければならない仕事がある。私の習得した織物の技術を、里の人々に伝えて行くという任務が。それが私を始め、三人の姫たちを育んでくれたこの八王子と、そこで暮す里人への恩返しとなるのだ。
こうして信松尼は、それからも懸命に絹を織りつづけた。これがのちに八王子が織物の町、桑都(そうと)と呼ばれるもとになったといわれている。その信松尼が里人たちに惜しまれつつこの世を去るのは、元和(げんな)二年(1616)四月十六日のことで、享年五十六歳であった。
その信松尼の百回忌に当る前年の正徳(しょうとく)四年(1714)四月、八王子を訪れた一人の武士があった。生弌尼の兄、秀基の子孫、仁科資真(すけざね)であった。
彼は信松院に立ち寄って墓参を済ませ、寺に軍船の模型を寄進すると(もう一度、3番目の写真に注目)足を伸ばして玉田院にも行って、花と線香を手向(たむ)けることにした。けれど、寺はすでに廃寺となっていて、荒れ果てた草むらの中に、生弌尼とその侍女たちの墓碑が、淋しく立っているだけであった。
—これはひどい!
激しい胸の痛みを覚えた資真は、翌年(1715)に再び八王子を訪れ、生弌尼と侍女たちの遺骨を近くの寺へ移して手厚く改葬し、追善供養を行なったのである。その寺こそ、私が何気なく立寄った極楽寺であった。確かに境内の奥には、三人の侍女たちに守られるようにして、生弌尼の墓はあった(4番目の写真参照)ふうっ、大きなタメ息を一つつき、現実に引き戻された私は、物悲しい気持で、満開の桜を凝視した。
—そういえば、高遠城もこれから多くの花見客でにぎわうことだろうな。しかも、その城内で咲く小彼岸桜の花びらは、ほかのものより、一段と濃い色をしているとされている。それは城を枕にして死んで行った高遠城主仁科盛信以下兵士たちの血が、しみこんでいるからだといわれている。
もう一度、私は深い息を吐き出してから、先っき来た道を戻り始めた。その時、もう散り始めたのだろうか、一枚の花びらがひらっと、私の肩に舞い落ちて来た。のどかな春の日の散策であった…。
(なお、掲載した写真は、後日改めて私が撮影したものであり、桜はすでに咲いてはいない)
(2018年2月1日14:30配信、2月1日15:10最新版)