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米沢四季のまつり・秋まつり事業の一つ、第35回鷹山公シンポジウム(主催 上杉鷹山公と郷土の先人を顕彰する会〈略称 先人顕彰会〉)が、8月30日(日)、伝国の杜置賜文化ホールで開催された。
(写真右=挨拶する小嶋彌左衛門氏)
今年のテーマは、「謙信公の実像に迫るー最新の研究で見えてきた成果からー」。令和9年は謙信没後450回忌、2030年は生誕500年を迎えることから、上杉博物館は特別展、上杉神社「稽照殿」は、謙信ゆかりの品々の修理や展示を行っている。
開会行事として、はじめにの小嶋彌左衛門会長が挨拶し、「鷹山公シンポジウムでは、米沢の歴史上の偉人、重要な人物を取り上げてきた。今年のテーマは、(米沢藩上杉家の)藩祖謙信公。織田信長が恐れた人物で、信長は洛中洛外図屏風を(同公に)贈っている。第30回(のシンポジウム)で同じテーマ、同じ講師で実施の予定だったが、新型コロナで中止せざるを得なかった。生誕500年に向けて関係団体が準備を進めているが、米沢市で開催の特別展、展示会を見学して頂きたい。」と挨拶した。
共催の米沢市を代表して、近藤洋介市長が「先人を顕彰することは、子供たちに郷土の誇りを持ってもらう大切な活動。今後20年から30年に向けて、上杉文化の歴史的資産を海外にも発信したい。市役所内でも観光文化スポーツ部を発足させた。謙信公生誕500年に向けて、上越市など、各自治体と広域で盛り上げていきたい。」と挨拶した。
講演1では、米沢市上杉博物館学芸員の阿部哲人氏が、「上杉謙信の出世と書状」の講演をおこなった。
(写真左=阿部哲人氏)
阿部氏は、上杉謙信が越後支配や領国外の諸勢力との外交で多くの書状を送ったが、その書状の書き方には謙信や相手の社会的地位に応じた書き方の規則(書札礼:しょさつれい)があり、相互の関係を確認する役割があったとした。
まず手紙の書き方を説明し、例えば、本文を閉める言葉である「書止文言」には、「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」、「恐々謹言(きょうきょうきんげん)」、「謹言(きんげん)」、「なし」の4パターンがある。
また阿部氏は、謙信がまだ上杉を名乗る以前の長尾時代の越後領主宛の手紙と関東管領となった上杉時代の越後・信濃領主宛の手紙などの「書止文言」の変化があり、家格と実力の変化が書札礼に違いが出ているとした。そして人生の転機がどんなところにあったのか、社会的に低い地位のところから、様々な領主に接する地位に至るまで手紙の書き方から知ることができると述べた。
講演2では、上越市公文書センター所長の福原圭一氏が、「上杉謙信の妻ー最新の研究からみる謙信の家族ー」について講演した。
(写真左=福原圭一氏)
これまでの一般的な謙信のイメージとしては、僧侶姿で、妻帯せずに生涯不犯の武将として描かれてきたが、平成20年、山本隆志氏が新潟県立歴史博物館研究紀要(第9号 2008年3月)で、高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)という史料を初めて紹介した。
それは「高野聖」と言われる人たちが、寝坊ごとのなわばりエリアに従い、全国で供養の営業をおこない、過去名簿は、命日や供養を依頼した日にち、供養を依頼した人、その場所や誰が取り継ぎをしたかなどが記載されているものである。
山本氏は、過去名簿の中に「越後府中御新造ノ御内宮崎御松子 昌英善女 逆 永禄二年四月一日トリ次東易談義所ニテ」という語を見つけた。「新造」とは、武家の妻女を指していう語である。「越後府中御新造」と書けば、越後府中で頂点に立つ謙信の妻と考えられるという。
次に、蔵田五郎左衛門へ宛てた上杉政虎(謙信)の書状の中で、「新さういそき越候様かせくへく候、しんさうこへ候者、、、」という書状の中にも「新造」の語があるとした。内容は、越後に帰国する政虎(謙信)と引き換えに、身代わりに「新そう」を関東に呼び寄せて残す」という内容。
(写真左=「越後過去名簿」)
福原氏はほかにもいくつか史料を示したが、「謙信の妻の存在を100%証明する確実な史料はない」とし、複数の状況証拠を組合わせて、蓋然性(がいぜんせい)を高めることが必要だが、ただし、謙信の妻がいた可能性はかなり高いと述べた。
その際の妻の出自は、「安田本長尾系図」より上田長尾一族の長尾晴景の娘とした。最後に、福原氏は、まだまだ分からないことが山積みしており、限られた史料を丹念に読み込むことが必要だと締めくくった。