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竹田 歴史講座

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古川清志さん(米沢)、戊辰戦争で戦死の先祖霊を帰郷へ


 

古川清志さん(米沢)、戊辰戦争で戦死の先祖霊を帰郷へ
ー荼毘に付された長岡市大黒町の土を故郷の墓にー

 米沢市万世町牛森に住む古川清志さん(85歳)は、戊辰戦争150年の平成30年9月、新潟県長岡市を訪れた。戊辰戦争で戦死した先祖の慰霊のためである。
furukawa-1 古川家の先祖である古川久左衛門政長(当時18歳)と、清志さんの母の実家の先祖、来次伊久馬秀政(当時36歳)の2人は、慶応4年(1868)に旧幕府側と新政府側の間で起こった戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の一員だった米沢藩兵として越後に出陣した。
(写真右=「八丁沖の戦い」が行われた場所の近くにある「長岡市北越戊辰戦争伝承館」)

 政長は同年7月25日に越後福井村(現在の長岡市福井)で、秀政は越後栃尾(現在の長岡市栃尾)で戦死した。平成30年は大河ドラマで『西郷どん』が放映され、戊辰戦争150周年あるいは明治維新150周年ということで、歴史を振り返るイベントが日本各地で開催された年である。古川さんはその機会を捉えて、友人とともに、初めて2人の先祖が戦死した場所を訪れたのである。それまで古川家では、先祖の戦死地を訪れたことはなく、どこでどのような状況で戦死したのかすら分かっていなかった。

furukawa-2 古川さんは長岡市大黒町にある「長岡市北越戊辰戦争伝承館」で、同館の安藤一弥館長(当時)から、その付近で行われた戦いの様子の説明を受けた。政長は同年7月25日に、「長岡市北越戊辰戦争伝承館」の近く、越後福井村(現在の長岡市福井)で戦死したことが記念館の戦死者名を記録したパネルに書かれてあった。
(写真左=古川久左エ門政長が戦死した大黒古戦場で手を合わせる古川清志さん(長岡市大黒町)、平成30年9月4日)

 当時、米沢藩の総督は色部長門守で、副総督は千坂兵部で、色部総督は新潟の防衛に当たり、千坂兵部は長岡周辺の戦闘の指揮を取った。政長は千坂兵部の配下にあり、大隊頭は中条豊前で第11小隊に所属していたようだ。
 この大黒町周辺での戦闘は、北越戊辰戦争の中でも最激戦地とされ、慶応4年6月4日(旧暦)から7月29日までのおよそ2ヶ月、長岡城の落城、奪還、再落城を挟んで激しい戦闘が続き、米沢藩兵はこの地区だけで80名近い戦死者を出した。特に政長が戦死した7月25日は、長岡城奪還のための「八丁沖の戦い」が繰り広げられた最も凄まじい戦いの日だった。
furukawa-3 長岡市にある河井継之助記念館を訪れた古川さんは、そこで稲川明雄館長(故人)にお会いして、「八丁沖の戦い」の様子を伺った。
(写真右=稲川明雄館長(左)と古川清志さん)

 稲川館長によれば、政長ら米沢藩兵は、大黒村の近くの福井村に陣を張り、7月24日夜、月明りを頼りに夜陰に紛れて出陣したものの、一帯はひどい湿地で泥田に膝までぬかって歩みが進まず、僅か一キロ余の大黒村に辿りつけないまま25日の払暁を迎え、新政府軍の銃に狙い討ちにされてバタバタと泥田の中に倒れていったそうだ。
 米沢藩は、この時こそとばかりに北越に大軍団を投入したと言われるが、老兵や少年兵が多く、装備は戦国時代の槍刀の軽装旧式で、西洋銃はあまり持っていなかったとされる。しかも実戦経験は皆無に近い。村人たちは「あれで戦争をするのか」といぶかったそうだ。士気の面では奥羽越列藩同盟軍の方が新政府軍よりも断然高かったが、結局は鉄砲などの装備の優劣が勝敗を分けてしまったことになる。
 安藤館長は、大黒村周辺での戦いが終って新政府軍が引揚げたのを見計って、村の人たちが奥羽越列藩同盟軍の兵士の遺体を集めて火葬にして丁重に葬ったと述べた。戦場となったこの大黒村をはじめ隣村では早春から男性も女性も人夫役に狩りだされて田植えができなかったということである。大黒町地区の方々は、今も毎年11月3日に「戊辰戦争慰霊祭」を行っている。

furukawa-4 安藤館長は、古川さんを戦死した米沢藩士が荼毘(火葬)にふされた場所に案内してくれた。その場所には長岡市出身で連合艦隊司令長官、山本五十六海軍中将(戦死)が揮毫した「戊辰戦蹟記念碑」が建てられ、同館隣接地には「戊辰の役供養塔」が建立されてあった。
(写真左=古川清志さんの依頼で、戦死供養塔跡の土を袋に詰める安藤一彌さん、令和3年11月3日)
 古川さんは、政長戦死から150年にして初めて戦死地を訪問し、戦死の様子を知り慰霊をすることができた。米沢藩のため、家族のため、奥羽越のために雄々しく戦い、名誉の戦死を遂げた政長を、「天晴れ、立派だった」と褒めてやりたいという思いが湧いたという。古川さんは、「戊辰の役供養塔」に花を供え手を合せた。また翌日は古川さんの母の実家の先祖、来次伊久馬秀政(当時36歳)が戦死した越後栃尾(現在の長岡市栃尾)を訪れた。歴史資料には、秀政は「越後栃尾表」という場所で戦死し、栃尾方面隊の米沢藩第7小隊に所属だったようだ。享年36才だった。長岡市栃尾の街中に「栃尾表」という場所があり、古川さんはその付近を歩いてみた。戊辰戦争を記念するものは何もなかった。 

 政長の死は古川さんの家の運命を大きく変えた。跡取りだった政長の戦死により、妹のゆきが婿養子をとって古川家を継ぐことになった。ゆきは古川さんの曾祖母で、若し政長が無事に帰国を果たしていれば、古川さんの父も古川さんもこの世に存在しなかった。
furukawa-5 古川さんは越後での慰霊の旅から帰ってすぐに、知人に頼んで政長の肖像画を描いてもらった。古川さんの家には、曽祖父母、祖父母の写真が残されていないことから、古川さんの父をモデルにして描いてもらったという。上杉武士の凛々しい若武者の肖像画が出来上り、いま古川さんが経営するレストランビッキ石の座敷に飾られている。
(写真右=古川清志さんの父の写真をモデルに描いてもらった古川久左衛門政長)

 そして令和3年11月上旬、古川さんは安藤前館長に依頼して、「長岡市北越戊辰戦争伝承館」の敷地内にある政長が荼毘(火葬)にふされた場所(戦死供養塔跡)の土を送ってもらった。その土を、古川家の菩提寺である万世町堂森にある善光寺の同家墓に納骨ならぬ納土を行い、政長の霊を150年ぶりに、故郷米沢に返すことができたと考えている。