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竹田 歴史講座

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渋谷区立松濤美術館、作家後藤克芳展開催10月3日〜

  

 ニューヨークを舞台に、現代美術の新しい流れとなったポップアートに取り組んだ米沢市出身の作家、後藤克芳氏(1936〜2000)の展覧会が、令和2年10月3日(土)〜11月23日(月・祝)まで、東京都の渋谷区立松濤美術館で開催される。
goto-6「後藤克芳 ニューヨークだより "一瞬一瞬をアートする"」と題したこの展覧会では、木を使ってスーパーリアリズムの手法で半立体作品を制作した後藤克芳の時代を先取りするような感性が見どころである。
 没後、遺族が作品をニューヨークから米沢に持ち帰り、その後、米沢市上杉博物館がその多くを所蔵することになった後藤克芳氏の作品を今回、一堂に紹介する。11月8日(日)午後2時から、米沢市上杉博物館学芸担当主査の花田美穂氏が同館で記念講演を行う予定。
(写真右=ニューヨーク・マンハッタンでの後藤克芳氏、1998年6月、成澤礼夫撮影)

 入館料は、一般500円、大学生400円、高校生・60歳以上250円、小・中学生100円。
開館は午前10時から午後6時まで。(入館は午後5時30分まで)毎週金曜日は、午後8時まで(入館は午後7時30分まで)

 ここで余白。
 後藤克芳氏は、米沢市田沢の出身で、武蔵野美術大学西洋画科を卒業した後は、郷里の米沢に帰り、画材を扱う彩画堂の2階で美大への進学を希望する受験生にデッサンを教えたり、絵画教室を開いた。当時、彩画堂には絵を描く若い仲間のサロンがあった。
(写真左=米沢市立第二中学校で開催した展覧会にて 写真提供 那須野浩氏)

 後藤克芳氏の美大時代の仲間、荒川修作氏や篠原有司男氏を米沢に招き、ネオ・ダダを紹介したりした。昭和37年(1962)頃、後藤克芳氏はニューヨークにいきたいという希望を抱き、そのことを友人らに漏らしていた。
 当時のニューヨークは、現代美術が伸び上がってきた時代で、知り合いが次々とニューヨークに渡って行く。後藤克芳氏は、ニューヨークに渡航するための費用を捻出するため、市議会議員や著名な地元経済人の肖像画を描いて費用を捻出したりした。昭和39年(1964)、横浜港から片道切符を持ってアメリカに向かった。
goto-3 (写真右=ネオ・ダダのメンバーと写る後藤克芳氏=右端から二人目、昭和37年4月27日 米沢市内 写真提供 那須野浩氏)

 ニューヨークに渡ってからは、山形新聞ニューヨーク特派員という肩書きをもらい、山形新聞の文化欄に、「ニューヨーク便り」というコラムを執筆したが、当時、普通の日本人が海外に観光旅行に出かけるというのは、夢のまた夢の時代。外貨の持ち出し規制もその後、しばらくつづいた時代である。郷里に錦を飾るというような一面や最先端のニューヨークの出来事を郷里に伝えるという使命感もあったかもしれない。
 昭和47年(1972)、永住権を取得したが、後藤克芳氏のニューヨークでの生活は、大変な苦労をされたようだ。生活のために、商業デザインや米沢からニューヨークを訪れた人たちの観光ガイドのような仕事もしたと聞く。
 後藤克芳氏は、ニューヨークに30年あまり滞在した。その間、アパートには描き留められた作品の数々が残された。それらはニューヨークらしいポップアートや、半立体のオブジェである。
(写真下=2004年8月〜10月にかけて米沢市上杉博物館で開催された展覧会)

goto-4 私が後藤克芳氏に初めてお会いしたのは、平成10年(1998)6月のこと。ニューヨークに米沢出身の後藤克芳氏がいると聞いたので、ニューヨークに行くついでに、お会いしようと思ったのである。自宅に「米沢からニューヨークに行くので、ぜひお会いしたい」という内容のファックスを送った。その返事が面白い。「私はつまらない人間とは会いません。」と書いてあった。私は思わず苦笑した。
 その時、私と後藤克芳氏は面識がなかった。面識がないということが、果たして「つまらない人間」という表現になったものか。それではというので、今度は「Sさんも私と一緒に行きます」と書いて送った。Sさんは、後藤克芳氏がニューヨークに渡る時に渡航費用の捻出に大いに協力してくれた大恩人ともいうべき方の息子さんで、米沢の財界の大物である。後藤克芳氏からまた返事があった。「それならば会います」というもので、米沢から訪ねた私たち4人はニューヨークのマンハッタンにある中華街のあるお店で会った。
goto-5 後藤克芳氏はとても小柄な方だった。白いハットと真っ赤なシャツがニューヨークという場所では違和感はない。
 ニューヨークでの生活や作家活動、それに米沢からきた人の案内などをしている話を伺った。米沢出身者でニューヨークに住んでいる人との交流はないと話していた。その時に上着の内ポケットにウイスキーの小瓶のしのばせていた。少々、酒臭い。私たちが食事をしている時に、後藤克芳氏は食事をしなながら日中からウイスキーを飲んでいた。

 私の後藤克芳氏との出会いは、それは最初で最後だった。さすがニューヨークに生きる芸術家らしい個性的な人物だと思った。それから1年半後、後藤克芳氏の訃報が米沢に届いた。ニューヨークの教会で葬儀を行った。そして、平成12年(2000)1月23日、米沢で行われた後藤克芳氏の葬儀のために、遺骨を米沢に持ちかえられた奥様、加藤ヨシ子さんにお会いして、ニューヨークでお会いした際の前述のエピソードを紹介させていただき、在りし日の故人を偲んだ。(米沢日報デジタル社長 成澤礼夫)