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歴史座談会 米沢日報デジタル新聞版(令和2年1月1日特集から)
タイトル「幕末の志士雲井龍雄をどう評価し、何を伝えていくか」
〜2021年、雲井龍雄没後150周年、銅像建立を目指して〜
出席者
■NPO法人雲井龍雄顕彰会会長 屋代 久氏
■福島大学人間発達文化学類教授 新井 浩氏
■歴史探訪家・米沢鷹山大学市民教授 竹田昭弘氏
■高岡染店代表、郷土史研究家 髙岡亮一氏
■(司会)米沢日報デジタル社長 成澤礼夫
日時 令和元年12月6日
場所 (於)上杉伯爵邸(米沢市丸の内)
明治3年12月26日(1871年)、東京小伝馬町の牢獄で、政府転覆のかどで、米沢藩幕末の志士雲井龍雄(1844〜71)が斬首された。それから間もなく150年になる。一昨年、米沢でNPO法人雲井龍雄顕彰会(屋代久理事長)が設立され、雲井龍雄の銅像を建立しようと運動を展開している。何故、いま雲井龍雄なのか、雲井龍雄が命をかけて目指したものとは一体何だったのか、座談会を開催した。
司会 本日の座談会テーマですが、間も無く雲井龍雄の没後150周年を迎えます。雲井龍雄をどう評価し、次世代に何を伝えていくかという視点でお話を頂きたいと思います。本日は会場に雲井龍雄の直筆を掲げております。雲井龍雄が同席していると思ってお話いただければと思います。
それでは始めに自己紹介をお願いします。
屋代氏 私はNPO法人雲井龍雄顕彰会理事長の屋代です。この法人は、約2年前、雲井龍雄の銅像を建立したいという趣旨で設立しました。私は米沢市と会津若松市でモスバーガーの店舗を経営しています。7年前に社長を娘に譲り、現在は会長職です。
実は40歳の時に、あるセミナーに参加しましたが、それは自分の年表を作るというもので、自分が死ぬ年齢を決めて残りの人生で何をするかの計画を立てるわけです。私は死を70歳と設定し55歳で仕事を辞めると決めました。実際に辞めたのは57歳でしたが。それで前米沢市長の安部三十郎さんは、高校の同級生で、3年前に「雲井龍雄の銅像を建てたいので手伝ってくれ」と言われ、今、このお役目を頂いています。
「激動の時代に理想の生き方を追求したのが雲井龍雄」—新井氏
新井氏 私の生まれと育ちは、埼玉県北部の町で、そこはかつて天領でした。そのような環境もあってか、呑気に育ち、いろいろな事に興味を持ちました。大学は教育学部に入り、元々は絵を描くつもりでしたが、恩師が前任の大学で作った作品を見てとても感動したのです。その時に、「彫刻は人を感動させる力がある」と思い、「これに自分の将来をかけてみるかな」と思いました。
そこからは手探りで木彫の勉強を始めました。いろいろなことに興味を持った少年時代が、彫刻でのモチーフの組み立てにうまく働いています。
人生を20年毎に区切ると、最初の20年は社会に出るまで、次の20年は自分と周りとの関係を確立する時間、40歳過ぎからは社会に恩返しをしていく時間と考え、私は40歳から個展を始め、最初がここ米沢での開催でご縁が生まれました。
平成23年、上杉神社境内に建立された上杉景勝、直江兼続主従の「天地人像」の制作に続き、今回また雲井龍雄像制作のお話を頂き、ご期待に応えられるように頑張りたいと思います。
現在、福島大学附属支援学校校長も兼務中ですが、制作に向けてできるだけ時間を作りたいと思っています。
「雲井龍雄と宮島誠一郎は、米沢藩の伝統を背負っていた」—髙岡氏
髙岡氏 私は昭和22年生まれの72歳です。米沢興譲館高校を卒業して岡山大学で学び、同地に8年、福島で1年、その後仙台で染物技術を習得して南陽市宮内に帰り、家業の染物屋をやっています。
10年故郷を離れて戻ってから、徐々に地元の歴史のすごさに気付かされるようになり、それをなんとか次代に伝えなければという思いで、いろいろ活動しています。
一昨年、地元商店街での10年来の活動成果を『宮内よもやま歴史絵巻』にまとめ、好評いただいています。今は、「吉野石膏コレクション」の超優良企業吉野石膏株式会社を今日あらしめた、宮内生まれの須藤永次について、そのすごさを知って欲しくていろんな場で語っているところです。
新たに知ったことや調べたことを、「移ろうままに」というブログに記録しています。
「上杉家の中で、第一義を最後に実践したのが雲井龍雄」—竹田氏
竹田氏 私は学生時代から歴史が好きで、源平古戦場を回ったりしていました。昭和60年からは、学習研究社が主催する「全国歴史散歩の会」という会に入り、その時の講師は今、大河ドラマの歴史考証などでしばしば名前が出てくる小和田哲男先生(静岡大学名誉教授、日本百名城の会会長)などです。 小和田先生と一緒に、今川、北条、徳川などの城歩きを行いました。私がこれまで訪れた城は、全国で計740か所を数えますが、全国には2〜3万の城があると言われ、まだその一部にしかなりません。私の勉強方法は、実際に自分の目で見て、歩いて調査を行うフィールドワークです。やはり、現場の風土を感じないと歴史は分からないと思います。
平成23年から、米沢市鷹山大学で市民教授として、月に1回、4時間の講義を行っています。米沢の歴史は確かに古く、上杉家の他に伊達氏や名だたる戦国武将が綺羅星のようにいますが、それがうまくPRできていないように思います。
山形県で幕末の志士といえば、庄内の清川八郎、米沢藩の雲井龍雄の二人がいます。米沢は何故もっと雲井龍雄をPRしないのだろうと思います。今回、屋代久さんらが雲井龍雄の銅像を建立すると伺い、とても嬉しく感じているところです。
司会 昨年6月16日、NPO雲井龍雄顕彰会が主催して、第1回シンポジウムが伝国の杜(米沢市)で開催されました。主催者として、銅像建立を訴える背景や目的について改めてお話しいただきますか?
屋代氏 米沢にはいろいろな理由があって、雲井龍雄は余り知られていません。銅像を建立する事により、まずは地元米沢に彼の存在を知ってもらおうと考えたわけです。
雲井龍雄が生きた時代は、幕末から明治維新にかけての時代です。彼は権威や権力におもねず、世の中の真実を見抜き、あるべき姿を求め、死を厭わないという哲学、それは「知行合一」、「滅びの美学」と言われるものだと思いますが、それを貫き通しました。それを多くの人に知ってもらいたいのです。
私たちの活動について、記者発表を行ったところ、各社の新聞・テレビで紹介して頂きました。山形県内では、藤沢周平のお膝元、鶴岡市からや、仙台市からもお問い合わせを頂きました。特に、仙台市の方は祖父が米沢市の出身で、雲井龍雄の直筆の書をお持ちだということで、私たちの会にご寄付頂きました。
不思議なことに、同じ内容のものが米沢市上杉博物館にもあり、書き方(はね方)は微妙に違っておりましたが、直筆を確認しました。因みに、米沢市上杉博物館所蔵のものは、私の祖母の実家から同館に寄贈されたものでした。
第1回シンポジウムには、約80人の参加者がありました。雲井龍雄の人物や、銅像制作者の新井浩先生に講演をお願いし、私たちの開催趣旨はご理解いただいたものと思っています。
(写真右=第1回シンポジウム、令和元年6月16日、伝国の杜)
最近ですが、南会津の方から雲井龍雄直筆の書を所有しているという電話を頂きました。色々と調べると、南会津に雲井龍雄を支援している人がいたらしいのです。雲井龍雄は、南会津に1ヶ月逗留していた時期があり、支援者に書き贈ったものと思います。
銅像建立のための募金額は1千万円です。これからクラウドファンディングで寄付を募ってまいりたいと考えています。
司会 平成16年12月、「置賜歴史を語る会」が主催した歴史講演会「詩魂、甦れ!ー雲井龍雄伝」が米沢市で開催されました。高岡さんが関わっていますが、どうしてこの時に雲井龍雄だったのですか?
髙岡氏 雲井龍雄は昔から気になる人物で、安藤英男氏の著作『新稿雲井龍雄全伝』を手元に置いていましたが、本気で読んではいませんでした。当時、司馬遼太郎的薩長中心史観が優勢で、奥羽越列藩同盟は無視されてきた感がありました。私は東北に住む者として、敗者の視点も大事ではないかと考えました、雲井龍雄はそのシンボル的存在としてイメージしていたと思います。
平成15年南陽市宮内で、歴史研究家の岡田幹彦先生に鷹山公について語っていただく講演会を開催して好評を得ました。その勢いで、こんどは雲井龍雄について語っていただきたいとお願いして、翌年実現したのでした。岡田先生も雲井龍雄については詳しくは知らないということだったので、「これで勉強してください」と言って、手元の「雲井龍雄全伝』を差し上げました。後に別途購入することになりました。
講演会資料作成のために龍雄関連書に目を通す中で、村上一郎氏の「雲井龍雄の詩魂と反骨」(『ドキュメント日本人3反逆者』所収 昭和43年)を読んだのが、私にとっての雲井龍雄との本当の意味での出会いになりました。
(写真左=座談会会場に飾られた雲井龍雄の直筆書)
村上氏はその中で言います。「雲井龍雄は、漢詩というものがもう日本の青少年教育から追放されてしまった今日の若者たちには、縁遠い人になっている。(中略)わたしは心から、この忘却、この抹殺を、雲井龍雄の渺(びょう)たる一身をこの世から消し去った明治社会の酷薄以上に罪ふかいものと考える。これは日本の万世に伝うべき詩心を、残忍に葬ってしまう教育の頽廃(たいはい)、文化の堕落の一つのあらわれであると信ずるのだ。雲井龍雄は、藤田東湖や頼山陽とともに、今日日本の近代詩史の序曲の上に復活せねばならぬ大事な一人である。(中略)そしてその詩心は、反逆不屈の一生と一体である。ここに日本東国の志硬いおぐらくも勁(つよ)い情念の一典型が塑像のごとく立っている観がある。」この文章に心動かされ、雲井龍雄講演会の表題を『詩魂、甦れ!』としたのでした。ちょうど詩吟を始めたころでもありました。
司会 竹田さんには、一昨年、戊辰戦争150周年と言うことで、米沢日報元旦号での座談会にご出席頂きました。雲井龍雄の書いた「討薩ノ檄」は、戊辰戦争の最中で奥羽越列藩同盟の理論的な支柱となったと言われていますが、どうお考えですか。
竹田氏 私は江戸時代末期の幕臣、小栗忠順(おぐりただまさ、1827〜1868)が好きですね。彼の生き様を見ると、雲井龍雄ととても似ています。彼は「本当の敵は薩摩」だと言っています。小栗忠順は維新後の四月に、無実の罪で斬首されました。
薩摩は関ヶ原の戦いで西軍側でしたが、東軍の敵前突破を図り、島津義弘はやっとの思いで薩摩に帰ります。徳川幕府に対しては、以来、長年恨みを持っているわけです。ですから、幕末も最初は公武合体、次に反幕、次に倒幕と、向き合う姿勢を変幻自在に変えていきました。
(写真右=毎年4月、常安寺で開催される雲井龍雄祭)
雲井龍雄が作った「帰順部曲点検所」には、三千人の浪士が集まったとされますが、大久保利通ら明治新政府は、雲井龍雄の人を集める能力に恐れをなしたのでしょう。「彼を生かしておけば新政府が危ない」と考えても不思議でありません。大久保らも元はと言えば、下級藩士でしたから、同じく下級藩士の雲井龍雄に自分たちもやられてしまうと考えたのかもしれません。10年後、西郷隆盛を担いで、鹿児島県士族が起こした西南戦争は図らずも、小栗忠順や雲井龍雄が言っていたことが正しかったことを証明しました。
仏門に帰依した上杉謙信は、「第一義」を唱え、ブッダが悟った万物の真理を掲げました。しかし、この「第一義」は上杉家が米沢に来てからはそれを示すことはなかったように思えます。
しかし、最後に雲井龍雄が出て、それを具現化したのではないかと思うのです。藩祖上杉謙信の面目如実です。それは「言うべきことは言う、やるべきことは命をかけてやる。」という姿勢です。清川八郎は策士として殺されましたが、雲井龍雄は「正々堂々」と殺されました。人間として、すごいですね。
司会 戦前、米沢では忠臣蔵と、雲井龍雄はタブーとして語られませんでした。雲井龍雄は、明治22年(1889年)の大日本帝國憲法発布に合せて、西郷隆盛らと同時に、恩赦が下されています。雲井龍雄に関して、再評価する動きは、昭和56年(1981)10月に刊行された安藤英男著「新稿雲井龍雄全傳(上下)」(光風社出版)の影響もあるのではないかと思います。
その著作の中で、雲井龍雄の生涯や思想、また漢詩などが体系的にまとめられ、ようやく全体像が浮き彫りとなりました。
雲井龍雄を理解するとき、どうしても光と陰の両方がある人物で、好き嫌いがはっきりしてしまいます。出席者の皆様は、雲井龍雄をどのように理解、評価していますか。
屋代氏 確かに、私も近くにこのような人がいたら面倒くさいなと思うかも知れません。(笑)
しかし、こちら側にも彼の奥に潜むものを理解できない部分も沢山あるように思うのです。それは何かというと、「人は自分の死を理解した時に生き方の面で強くなる」ということです。雲井龍雄は、結核を患っていたと言われます。あと何年生きられるか分からない、人よりも自分の死を身近に感じていたと思うのです。だから命をかけてやり遂げる、命を燃焼したいと考えても不思議ではありません。その意味では長州藩で奇兵隊を作った高杉晋作に似ている部分があると思います。
私が雲井龍雄の生涯に関する年表を作成したところ、雲井龍雄の動きよりも時代の方が先に行っていたように思うのです。雲井龍雄も山田方谷や河井継之助と同じ陽明学を学んだのですが、彼らはそれなりに歴史の一ページを飾るような働きや名を残しています。雲井龍雄ももう少し早い時代に生まれていたら、もっと米沢藩や世の中に役立つ人物になったのではないかと思います。しかし、私としては、27年という短い生涯ではありましたが、いろいろな意味で雲井龍雄を高く評価しています。
新井氏 芸術が芸術であるには、それまでの見方を変える力があるかどうか、という点が必要だと思います。人を従来の見方でかたくなにしてしまうのは芸術ではありません。そうゆう意味で私は制作の対象になる人物に共感できる、人の見方を変えてくれる点があるかどうかがとてもたいせつです。
(写真右=平成23年4月、竣工式で天地人像を前に挨拶する新井浩氏)
私が雲井龍雄像を作る上で、彼の具体的な国家像、経済観については十分に承知していません。
しかし、彼の手紙を見る限り、人々の理想的な暮らしや生き方を追求したことが、「討薩ノ檄」に繋がっているように思るのです。
また雲井龍雄が始めた「帰順部局点検所」は、明治維新により浪人になった武士達の再就職のための「セフティーネット」だと思うのです。そこにも彼の先見性を見る思いがします。
明治維新という、日本の歴史の中で何百年に一度の、変革期の時代でした。その中で行動を起こすためには、強く言わなければならなかった場面もあっただろうし、それが「討薩ノ檄」のような形で発信したのではないかと思います。
(写真左=平成23年4月、竣工式で天地人像を前に作家の故火坂雅志氏)
時代に遅れて登場したが故に、時代の歯車に取り残された部分をどう後始末するか、それが「セフティーネット」を作る動きと重なります。
雲井龍雄の像は剣を後ろに下げていますが、「これからは言論で世の中を作っていきますよ」という、10年、20年後の日本の姿、理想を謳ったものを図案化しました。
髙岡氏 先ほど、謙信公以来の「第一義」の精神が雲井龍雄によって具現化されたという竹田さんのお考えに、なるほどと思いました。それにつけ加えれば、雲井龍雄には鷹山公の精神も流れ込んでいます。内村鑑三は、『代表的日本人』の上杉鷹山の章で、「徳がありさえすれば、制度は助けになるどころか、むしろ妨げになるのだ。・・・代議制は改善された警察機構のようなものだ。ごろつきやならず者はそれで充分に抑えられるが、警察官がどんなに大勢集まっても、一人の聖人、一人の英雄に代わることはできない・・・本質において、国は大きな家族だった。・・・封建制が完璧な形をとれば、これ以上理想的な政治形態はない」と言っています。内村の考えは大著『鷹山公偉蹟録』全21巻を著した甘糟継成の「君民同治」論から得ています。徳ある君主を得た封建制に信を置くという感覚は、謙信公以来鷹山公を経て龍雄に流れ込んいるはずです。龍雄の師安井息軒は、高鍋藩の隣藩飫肥藩の出、若い時鷹山公の事績を慕って米沢を訪ねています。龍雄重用の背景に鷹山公がおられたように思えます。
皮肉なことに龍雄の詩は、民意の絶対を主張する自由民権運動の中で広く愛吟されることになります。龍雄とともに幕末の激動を駆け抜けた宮島誠一郎が自由民権に対して批判的であったように、龍雄も生きていたら、自由民権に対して距離を置いたはずです。
内村鑑三は明治30年の『萬朝報』に、「もし雲井龍雄をして今日尚あらしめば、彼等は何の面(どのつら)ありてかこの清士に対するを得ん」という明治藩閥政府批判の文章を残していますが、明治政府にとって雲井龍雄は、死して尚、戦慄すべき存在だったことがうかがえます。なお生きてをや、です。
司会 雲井龍雄処刑の前年、長州の奇兵隊が戊辰戦争後の処遇を巡って、反乱を起こし、多くが処刑されたのですが、雲井龍雄は実際にクーデターを起こしたわけではありませんでした。竹田さんは、雲井龍雄をどう評価しますか。
竹田氏 雲井龍雄は、幕末に江戸詰となり、1年間、三計塾で学びます。その後、京都で上杉家の探索方についた時は、大政奉還というと大きな時代の流れが定まる頃で龍雄の力では、どうしようもない時代に入っていました。
さらに、西国雄藩の先進的な人達と交わる中で、当の米沢藩は名門意識が支配し、頑として動かないというもどかしさを感じていたかもしれません。雲井龍雄が過激に走らざるをえなかったのは、米沢藩の保守的な上層部のこの頑なさが原因だったのではないかと思います。
雲井龍雄を見ていて可哀想だなと思うのは、西国では同じ思想を持つもの同士がグループで行動をとっており、それが藩をも動かす力になっていました。雲井龍雄はただ一人、常に孤高で戦っていたということです。一人で時代の変革期に大海に投げ出された感がします。
司会 昨年6月、第1回シンポジウムの際に、新井先生から雲井龍雄の銅像のイメージが発表されました。平成23年春、米沢市松が岬公園に新井先生による上杉景勝、直江兼続主従の「天地人像」が建立されましたが、銅像制作の面では、どんなところに違いがありますか。
新井氏 「天地人像」は、丁度、江戸時代が始まる時であり、「雲井龍雄像」は、それが終わる時です。
まず雲井龍雄像の制作がブロンズ像だということを意識する必要があります。ブロンズは、古くは飛鳥時代にも釈迦三尊像が制作されましたから、技術自体は引き継がれてきました。ただ近現代の日本で建立された屋外の像は、ヨーロッパから再輸入された西洋風の表現形式なのです。
今回、建立が予定されている場所は、常安寺の境内ですから、そのブロンズ像は和風にし、景観に調和させるという一工夫が必要です。その意味では、現在の姿をもう一捻りする必要があるのかなと考えています。
雲井龍雄像には、維新という激動期の中で人を惹きつけるには、「剣よりも言論」という時代背景を前に出そうと考えています。
具体的には、左手奥に剣を持ちつつ、右手は弁舌を意味するボディーアクションを加えています。これは崩したくないと思っています。彫刻は表現であり、許容できる制作の範囲で、雲井龍雄らしい像を作っていきたいと思います。現在、デッサンの表情は、多少柔和になっていますが、粘土で作る時は、表情に悲壮感を持ちながらも先を見ようとする雲井龍雄の意思を表現するようにしたいと思いますが、バランスの加減が必要です。
(写真上、右=新井浩氏による雲井龍雄像のデッサン Copyright Hiroshi Arai)
司会 末永く後世に残っていく雲井龍雄の銅像ですが、市民にどのような点をアピールできる銅像にしていったらいいと思いますか。
屋代氏 日本のあちこちに行きますと、例えば、高知では坂本龍馬の銅像が駅前や桂浜に立っています。立っている場所で、その人物の価値観が変わる気がいたします。
雲井龍雄の銅像は、一応、建立場所には常安寺ということで住職の了解は得ていますが、米沢観光コンベンション協会の小嶋彌左衛門会長から、銅像を米沢市内のある場所に、まとめたらどうかというご意見も頂いています。自分たちの自己満足ではなく、米沢をもっとグローバルに考えた上で、より人目に触れて、それが人々の共感に繋がっていく場所という視点が大事だと考えるようになりました。この設置場所に関しては、もう一度、皆さんと話し合いたいと思います。
雲井龍雄の銅像を通して、幕末の米沢藩に己の信念を貫いて、命をかけた男がいたということをまずは知って欲しいと思います。この目標を実現する意味では、設置場所についても再検討する必要があると思います。建立する場所によって、新井先生のデザインにも影響してきますから。
新井氏 屋代さんのお話されたことは、私の制作内容とすごく繋がってくることです。
髙岡氏 雲井龍雄についてぜひ言っておきたいのは、尾崎周道著『志士・詩人 雲井龍雄』の最後の場面です。尾崎説によると、小伝馬町の牢で詠んだ「辞世」は、牢外に居る曽根俊虎に聞かせるための詩であったというのです。「・・・渺然たる一身 万里の長城」。俊虎は龍雄の意を受けて、宮島誠一郎とも意を通じつつ、支那へアジアへと勇躍することになります。日本で最初のアジア主義機関興亜社を設立、宮崎滔天と孫文を引き合わせる役割を果たしたのが俊虎でした。その源流に雲井龍雄の念い、志があるのです。
「置賜発アジア主義」は、大東亜戦争に流れ込む「侵略的アジア主義」とは明確に一線を画します。それぞれの民族の自主独立を重視するアジア主義です。その流れの中に、宮島誠一郎の長男宮島大八(詠士)がいます。そのほか、河上清、遠藤三郎、平貞蔵、大井魁といった面々も含めて「置賜発アジア主義」と題する論考を、昨年、御堀端史蹟保存会の『懐風』44号にを載せていただいたところでした。
竹田氏 5年ほど前に、鶴岡市で行われた加藤清正公400回忌法要の際に、隣に吉村美栄子県知事が座られ、名刺交換を致しました。
米沢は歴史のまちなのに、駅に降りてもそのまちを象徴する歴史的なものが少ないという話題になりました。私は観光客や、米沢市に住むものにとっても故郷を愛する心を醸成する上では、駅前がとても大事な場所だと思うのです。全国を回ると、駅前に銅像があるところが多いです 雲井龍雄に関して言えば、米沢市の常安寺にお墓があり、北村公園に「倒薩の檄」のモニュメントがあり、別々に分かれています。ちょっと変だなと思います。
もう一つ、述べたいことは銅像の向きですね。春日山にある上杉謙信像は、川中島を向いています。「討薩ノ檄」であれば、「薩摩を睨む「とか、意味を考えて建てた方が良いのではないかと思います。
屋代氏 銅像を建てるには、お金が必要なのですが、それよりもまずは、雲井龍雄を知って頂くことが大事ですね。マスコミに取り上げてもらったり、シンポジウムやイベントを通して、皆さんに理解していただくプロセスが大事だと思うのです。そうでないと、「仏作って魂入らず」になってしまっては意味が無くなってしまいます。そうした上で、一生懸命に募金活動を行っていくことにしたいと思います。
新井氏 本日、皆様からのお話を伺い、いろいろな点を制作面に反映させていきたいと思いました。ここにお持ちしたデッサンは、これから粘土を作る時に見直してまいりますが、顔は少し見上げた形して、偉大な精神の人だったことがわかるようにしたい思います。彼が苦悩が抱えながら必死に生きていたという心の内面も汲み取りたいと思います。
髙岡氏 宮坂考古館に雲井龍雄のカッパが展示されていたのを見たことがあります。雲井龍雄という人物のリアリティが伝わって感激しました。新井先生もぜひご覧になってみると制作の参考になるかもしれません。
数年前、南陽市の「白鷹山に『伝国の辞』碑をつくる会」で白鷹山山頂に鷹山公の石碑を建立しました。募金目標は250万円だったのですが、130万円上回る寄付が集まりました。除幕式へのケネディ大使ご出席は叶いませんでしたが、大使からのメッセージを碑に刻み込むことができました。鷹山公のなせる業(わざ)です。
雲井龍雄ファンも全国にいます。より知ってもらうことでどんどん増えるはずです。
竹田氏 雲井龍雄を映画にする計画はありませんか?映画は今、大きな影響力があります。映画を作ることが町起こしにもつながっているくらいですから。雲井龍雄となると、歴史の中でもファンというよりもマニアックな部類に入る感じがします。
屋代氏 募金に関しては、地元だけでなく、クラウドファンディングにより、全国から集めたいと思っています。
実は映画という線も考えましたが、米沢出身の俳優に当たったのですが、多忙で身動きが取れないと断られました。朗読にしたいと思っています。これから市民の皆様にも色々なアイデアを出していただきながら、より良い方向に持っていければと思っています。宜しくお願い申し上げます。
司会 この座談会が雲井龍雄の理解に少しでもお役に立てることを祈念したいと思います。本日はありがとうございました。
(2020年4月6日13:30配信、2021年8月22日07:25最新版)