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寄稿者略歴
斎藤秀夫(さいとうひでお)
山梨県甲府市生まれの東京育ち。東京都八王子在住。著書『男たちの 夢 —城郭巡りの旅—』(文芸社)『男たちの夢—歴史との語り合い —』(同)『男たちの夢—北の大地めざして—』(同)『桔梗の花さ く城』(鳥影社)『日本城紀行』(同)『続日本城紀行』(同)『城と歴史を探る旅』(同)『続城と歴史を探る旅』(同)『城門を潜って』(同)
私は昔の国名でいうと、甲斐(かい=今の山梨県)の生まれである。とはいっても、それはただ単に、その地で出生したというだけのことにしか過ぎない。だが…、それでもやはり、わが誕生の地のことが気になるのは、当然の感情といって良いであろう。
その甲斐国の生んだ戦国時代の英雄といえば、今でも米沢藩の祖として、松が岬公園にその像がある上杉謙信の永遠のライバル、武田信玄を挙げねばなるまい。そして、彼には何人もの息子がいたが、その中でも四男勝頼と、そのすぐ下の弟について、少し触れてみようと考えたのである。
この勝頼は天文(てんぶん)十五年(1546)甲斐の国主、武田信玄(もっとも、このころはまだ晴信といい、信玄を名乗るのは永禄〈えいろく〉元年〈1558〉のことだが、便宜上信玄と統一して書く)の四男として、この世に生を受けた。この勝頼の母は、信濃国(今の長野県)諏訪郡の豪族で、代々諏訪大社の大祝(おおはふり=あらひとがみ)を勤める諏訪頼重(よりしげ)の娘であった。
この頼重は、天文十一年(1542)七月四日、信玄が現在の諏訪市四賀にある桑原城を攻め、降伏させた相手であった(その後頼重は信玄の謀略に会い、同年七月二十一日、甲府にある東光寺で、切腹させられている)その娘を信玄は己の側室とし、そして生まれたのが勝頼であった…。つまり、あくまで彼女は、敵将の娘であり、いつ自分の寝首を掻(か)かれるとも限らない、きわめて危険な存在であった。そんな女性を、なぜ信玄は側室にしたのであろうか?
『甲陽軍艦』によれば、
「彼女は、尋常かくれなき美人」
そう書かれているので、それが最大の理由であったのかも知れない。いずれにしても、信玄の四男として誕生した勝頼は、幼名四郎、元服してからは勝頼と呼ばれるようになった。このあたりにも、この男の悲劇性が内蔵されていた。というのも、代々武田家の男児には、"信"の文字が入るのが慣例だが、勝頼には、その文字が使われていないのである。
永禄五年(1562)長野県上伊那郡にある高遠(たかとお)城の城代となった彼は、正式に諏訪四郎勝頼となった。父信玄が"信"の文字を与えず、武田姓を名乗らせなかったのも、自分の四男を諏訪氏の正式な後継者として立てる事によって、武田家と己の手で滅ぼした諏訪家との関係を、何とか修復させたいと、そう考えたに違いない。
"頼"の一文字が、それを象徴的に表現している。この字は武田家の系統にはなく、諏訪氏の用いるところであったからである。
また信玄が、そんな息子に高遠城をまかせたのは、永禄三年(1560)五月十九日、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市緑区)で、今川義元を破り、急速に勢力を拡大しつつある織田信長を意識してのことであった。
高遠城(掲載した1番目の写真参照)は標高1,192メートルの月蔵山(がっぞうさん)の西側山麓の突き出た台地上にあって、南は三峰川(みぶがわ)が険しい段丘を作り、北から西にかけては、藤沢川が深い谷を形成して、台地を取り巻くように三峰川と合流している。これらの地形を巧みに利用して、本丸を段丘の突端に置き、北より東に二の丸を、西には勘介郭(かんすけぐるわ=2番目に掲載した絵図参照)を配し、そしてその外側に三の丸を廻らした"城郭三段の構え"を持つ要害であった。勘介郭は、天文十六年(1547)三月八日、信玄はこの城の造営に着手するが、その時、家臣の山本勘介に縄張りを命じたので、その名が付いたと言われる。(絵図は高遠町文化財保護委員会発刊『高遠城』より引用)
加えてこの地は、諏訪→高遠→木曽とを結ぶ、対美濃(今の岐阜県)防衛ラインの、中核をなす軍事拠点でもあったのである。こうして勝頼は、この高遠城を預かることになるのだが、在城中に目立った業績は少なく、わずかに、弘治(こうじ)元年(1555)十一月六日に病死している生母諏訪御料人の七回忌法要を高遠の建福寺(けんぷくじ)で営み、高野山にその位牌を納めたのと、諏訪の二宮小野神社に、鐘を奉納したぐらいでしかない。それだけ、このころはまだ、平穏であったと見るべきであろうが、しかしやはり、穏やかな日々は、そう長くは続かなかったのである。
永禄八年(1565)九月、信玄の嫡男義信が、父によって幽閉され、同十年(1567)十月十九日に、自刃に追いこまれるという事件が起きた。この父子の対立の萌芽は、すでにその前年あたりからあった。それは信玄が信州・美濃方面への進攻をあきらめ、東海・駿河・三河方面への進攻へと、路線を180度改めたことが原因である。
山国甲斐を地盤とする信玄にとって、海を手に入れることは長年の夢であった。しかも当時の交易のメインルートは日本海であった。例えば、奥州からの産物は日本海を経由して、若狭(今の福井県)に運ばれ、京都や畿内へ持ち込まれていた。そこでまず信玄は、その日本海を目ざしたのである。けれどその行く手には、越後(今の新潟県)で戦いの化身ともいうべき上杉謙信が待ち構えていたのである。上杉家が米沢へ赴くのは、謙信の後を継いだ景勝の時代の慶長6年(1601)になってからのことである。
謙信にしても、信玄に日本海に出られたら、万事休すである。そこでこの両者による合戦は、天文二十二年(1553)から永禄七年(1564)までの足掛け十二年、五回にわたって展開された。これが有名な"川中島の戦い"であるが、竜虎が長いこと干戈を交えている間に、社会情勢は大きく変わりつつあったのである。中でも織田信長の台頭は、この二人にとっても脅威となった。
そこで、信玄は大きく路線を変え、日本海から太平洋への進出を模索したのである。だが、そのために障害となったのが、天文二十三年(1554)駿河(今の静岡県)の今川義元、相模(今の神奈川県)の北条氏康との間で締結された"三国軍事同盟"であった。この同盟があるがゆえに、信玄はその背後を心配することなく、謙信と十二年間戦えたわけだが、今となっては、かえってこの盟約は邪魔なものでしかない。それに義元の後を継いだ氏真(うじざね)は、謙信と比べてはるかに軍事能力は劣っていたから、ついに信玄は決断したのである。
けれど、その父の路線変更に、真向から異を唱えたのが、嫡男義信であった。その理由はいくつかあるが、『勝山記(かつやまき)』の天文二十二年(1552)の条に、
「此年霜月(しもつき=十一月)二十七日、駿河義元御息女(氏真の妹)を甲州晴信(信玄)様御嫡武田大吉(義信)様の御前(正室)になおしめされ候(そうろう)」 とあるのが、最大の原因かも知れない。さらに義信の母は、義元の母寿桂尼(じゅけいに)の仲立ちにより、信玄に嫁いできたという事実も決して無視は出来ないであろう。こうして義信は、最後まで父と全面対決の姿勢をくずさず、やがて、先に記した如く、甲府東光寺に押込められ、二十八歳でこの世を去る運命にあった。
これはあくまで、私の推測にしか過ぎないのだが、ひょっとしたら信玄の胸中には、天文十年(1541)六月十四日、実父信虎を今川義元のもとに追放して、甲斐国の実権を奪い取った、その若き日の自分の姿と、義信の姿とを、重ね合わせていたのかも知れない。というのも、信玄の筆跡はその風ぼうとは対照的に、
「線が細くて、読みやすい」
といわれているから、案外彼は気の小さい、臆病な性格であり、義信が自分のまねをすることを恐れたのかも知れない。
それはともかく、嫡男義信の死によって、武田家を相続する最有力者に浮上したのが、四男勝頼であった。すでに信玄の次男信親(龍芳)は信州佐久郡の海野(うんの)氏を、三男は夭逝し、五男盛信(もりのぶ)は信州安曇(あずみ)郡の名門、仁科(にしな)氏を継いでいた。因みに、仁科氏の祖は平清盛の嫡孫維盛(これもり)にあるとされ、盛信は永禄四年(1561)五月に、五歳で仁科家の養子となった。
このように信玄の跡取り候補となる男児は、彼しかいなかったし、その上、この勝頼が勇猛果敢な武将である事も加味すべきであろう。事実、彼は、永禄十二年(1569)十二月六日に、北条氏の重要拠点である蒲原(かんばら=静岡県庵原郡)城に攻め入り、武将を始めとして、何人かの敵兵を討ち取っているのである。この城は背後は険しい狭谷、前面が駿河湾という"後ろ堅固"と称された要塞であったから、それを攻略した意味は大きい。また元亀(げんき)元年(1570)八月十二日にも、信玄と共に出陣して、大いなる活躍を見せた。こうして勝頼は、翌年(1571)甲府つつじが崎館で、正式に武田家の後継者となるのだが、しかし、すべて順調に行かないのが人生と言って良い。元亀四年(1573)四月十二日、信玄が没してしまったからである。その際、信玄は、
「三年間死を秘匿し、決して外征をせずに国力の充実を計れ」
そう遺言したという。さらに『甲陽軍艦』には、こう書かれている。
「第一に、勝頼は嫡男信勝が十六歳になったら、家督をすみやかに譲ること。信勝相続後は、その後見人になること。第二に、孫子の旗(俗にいう風林火山の旗)を掲げてはならない」
これが信玄死後の、勝頼の立場を、かなり不安定にものにした。前にも記したように、勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘なのである。また、彼は長いこと諏訪四郎勝頼であって、武田四郎勝頼となるのは、兄義信の死によって、信玄の正式な後継者として認められ、甲府へ呼び戻された元亀二年(1571、信玄の死の二年前)のことなのである。そういった複雑な環境が、家臣団の胸の中に、微妙な影響をもたらしていたことは否定出来ないであろう。さすがに、カリスマ性の強い信玄の生存中はその気持ちが表には出なかったが、信玄の死後、家臣団の間でくすぶっていた勝頼に対する不満が、一気に噴き出したのである。そして、その家臣たちの心の動きを、勝頼もまた、敏感に感じ取っていたのである。
ーよし、ならばわしは、合戦で己の実績を築き上げるのみだ…
そう勝頼が考えたとしても、特別不自然ではなく、またそれだけの行動力も、この男にはあった…。天正(てんしょう)二年(1574)五月三日、二万五千の兵を率いて甲府を出陣した勝頼は、やがて、『改正三河後風土記』巻十四にある、
「諸手(もろて)の軍勢をすすめて、高天神城(掲載した3番目の写真参照)を攻めかこむ」
という行動に出たのである。現在の静岡県小笠郡大東町にあって、
「高天神城を制する者は、遠州を制す」
と称されたこの要害は、三年前に父信玄も攻めたことがあるが、陥落させるには到っていない。それを勝頼は見事攻略させたのだから、
ー見たか、おまえたち!
家臣団に対して、彼はそう大声で叫びたかったに違いない。家康を応援すべく、遠江(とうみ=今の静岡県、遠州と同意語)まで軍を進めていた信長は、その陣中で高天神城が落城したとの情報を耳にすると、越後の上杉謙信に宛て、
「勝頼は若輩(この時、勝頼二十八歳、信長四十一歳、謙信は四十五歳であった)といえども、信玄の掟(おきて)を守り、表裏をわきまえた優れた武将で、恐るべき敵である」(上杉家文書)
そう書き送っているほどだから、勝頼の胸中は、自信で溢れかえっていたと想像される。だがこの自信が、過剰であったことに、やがて彼は、思い知らされることになる…。それが翌年(1575)五月二十一日、勝頼が織田信長・徳川家康連合軍と激突した"長篠・設楽ケ原(ながしの・したらがはら=愛知県新城市)の戦い"であった。重臣たちの反対を押し切ってまで、連合軍に合戦を挑んだ勝頼であったが、予想もしなかった惨敗に、彼の心は打ち砕かれた。そしてこの戦い以降、武田家が滅亡への道を歩みだしたのは確かであろう。とはいえ、力が急速に衰えたわけではなく、奪い取った高天神城を守り抜き、しばらくは、信長・家康の侵攻を食い止め、何とか武田の名声を保ち得たのだから、必ずしも勝頼は凡将ではない。そのことは、先の信長が謙信に送った書状同様、家康も勝頼のことを、
「数寄者(すきしゃ=進取の気質に富む人)で、知恵ある者」
そう捉えていたというから、それなりの評価はすべきであろう。だが、それもついに…。
天正八年(1580)閏三月五日、武田家の衰弱が、顕著となる出来事が起きた。頼みとしていた本願寺一向一揆衆が、信長に屈服してしまったからである。天正三年(1575)四月十四日に石山(大坂)本願寺攻めに踏み切ってから、信長はこの宗教教団と、血みどろの争いを展開して来た。だから、長篠・設楽ケ原の戦いで武田軍を紛砕しながらも、その息の根までは止められなかったのだ。けれど、その石山合戦に勝利し、近畿地方を平定した信長には、その矛先を東へ向ける余裕が生じたのである。
一方勝頼としても、信長の圧力が、日毎に強まって来るのを、その肌でしっかりと感じ取っていた。そこで領国の守りを固めるべく、信州伊那谷の扇の要の位置に当り、諏訪口の関門でもある高遠城に、自分のすぐ下の弟、仁科盛信を添えたのである。勝頼より九歳若い盛信は、性沈毅深謀(せいちんきしんぼう=性格は落ちついていて、深い謀=はかりごと)を持ち、父信玄の風ぼうをよく伝えている、そう称されたほどだから、勝頼が最も信頼出来る人物といって良かった。そして、勝頼自身は、天正九年(1581)正月、祖父信虎以来、信玄・勝頼と三代にわたって六十年間、領国支配の拠点であったつつじケ崎館をあえて捨て、新府城(山梨県韮崎市)造営に着手したのである。
そんな中、天正十年(1582)になって、木曽地方を領する木曽義昌(義仲の子孫)が、信長に通じてしまったのである。『当代記』の一月二十五日の条にも、
「信濃国木曽の主(あるじ)伊予守義政(昌)忠節を致すべきの由、東美濃苗木久兵衛を以(もっ)て、信忠(信長の嫡男)へ言上」
とある。義昌は信玄の三女万里姫をその妻にしていたから、勝頼の受けた傷は大きく、激怒した勝頼は二月二日、
「新府城より馬を出(いだ)し、一万五千計(ばかり)にて、諏訪の上原に陣を居(すえ)、諸口の儀、申し付けられ候」
と『信長公記』にもあるような命令を下した上で、三月十六日、木曽防衛の北方の第一線に当る鳥井峠(長野県木祖村)で、織田の支援を受けた、義昌軍と戦った。が、結果は地の利を得た義昌軍の勝利で終った。
けれどなぜ、義昌は勝頼に背いたのであろうか?、一説には、前年の十二月の新府城造営の際、勝頼は義昌に難題をふっかけ、膨大な数量の木材提出を要求した。その上、木曽の領民を酷使して、しかも課役に使う資材や道具類、弁当まですべて義昌の負担にしたという。『長国寺殿御事蹟稿』という文献にも、
「工事人足は二月十五日集合すること。要員の基準は領内十軒について一人の割合であること。軍役衆は人足の食糧を用意すること。水役の人足は別に出すこと。人足の勤める日数は一人三十日であること」
そう記されている。北条氏の普請役が一人十日であったことを考えると、いかに過重な労役であったかが解る。そのため、勝頼が新府城へ移転した時、甲府の町人・商人たちは誰一人ついて行かなかったと、いわれているから、義昌が勝頼を見限ったのも、止むを得なかったのかも知れない。さらに勝頼にとって、痛恨の事態が発生してしまった。駿河代官を勤める江尻城(静岡県清水市)の主、穴山信君(梅雪)が、家康に誘われて、徳川軍を駿河口から、甲斐へ招き入れてしまったのである。信君は信玄の次女(見松院)を妻としている上に、彼の生母は、信玄の姉(南松院)であったから、血のつながりからいえば、義昌よりも濃く、親族筆頭の立場にあった人物である。そのため、天正三年に、江尻在番(城番)として、江尻城をまかせられていたわけだが、信君の胸の中には、武田家歴代の〝信〟と言う名前のない、自分より五歳若い勝頼に、常に対抗意識を持っていたと考えられる。
衝撃を受けた勝頼は、やむなく二月二十八日、諏訪の上原城(この城は諏訪地方の政治・経済の中心地で、名門諏訪氏が、代々居城としていた場所である)の陣を払って、新府城へと戻って行った。
一方、信忠率いる五万の織田軍は、すでに木曽口、岩村口の両方から、怒とうのごとく、伊那に進入して行ったのである。貝沼原(伊那市富県)に本陣を構えた信忠は、三月一日、背後の月蔵山からの別動隊とともに、高遠城を挟撃する作戦を敢行した。そして『信長公記』にも、
「三位(さんみ)中将信忠卿(きょう)御ほろの衆(母衣衆)十人ばかり召し列(つ)れ、仁科五郎(盛信)楯籠(たてこも)り候高遠の城、川(三逢川)よりこなた高山へ懸(駈)け上げさせられ、御敵(おんてき)城の振舞の様子御見下墨(おんみさげすみ)なされ」
そうあるように、十分に敵情を偵察した上で、三月二日、全軍に総攻撃を命じたのである。
明け六ツ半(朝七時)戦闘の火ぶたは切って落された。三峰川を渡った織田軍は、まず法幢院郭(ほうしょういんぐるわ)に押し寄せた。さらに、別動隊が、
「大手(追手)搦手(からめて=掲載した2番目の絵図を改めて参照)より、込み入れ込み立てられ、火花を散らして相戦ひ」(信長公記より)つつ、徐々に本丸を目ざして、突進して行った。仁科軍は、必死になってこれを防ごうとするのだが、高遠城を守る兵士の数は二千六百名ほどしかおらず、やがて一人倒れ、また一人倒れして、ついに敵軍は本丸に殺到して来た。この時城主盛信は、家臣三十名とともに、七間に十二間(約13メートルに約22メートル)の大広間に立て籠っていたが、敵兵は屋敷の屋根に登って穴を開け、そこから弓や鉄砲を撃ち込んで来た。
ーもはや、これまでだな…。
すべてを悟った盛信は、二間(約3.6メートル)の大床(おおどこ)に打ち上り、
「新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ=八幡太郎義家の弟)の後裔、法性院(郭の名前にもなっている)信玄の五男、薩摩守仁科盛信、生年二十六歳を以(もっ)てここに自害す。汝らやがて武運尽きて腹切らん時の手本とせよ」
そういい放ち、桐葉の鎧(よろい)の上帯切ってかなぐり捨て、短刀ぬいて左脇腹に突立て、右の肋骨二、三枚かけて腹かき破り、腸(はらわた)つかんで壁に投げつけて、見事切腹して果てたと、伊那市立高遠町歴史博物館発刊の『高遠城の戦い』という小冊子にはあった。
武田勝頼が新府城でこの事実を知ったのは、三月二日の夜であった。『甲乱記』にも、
「高遠の城にて討洩(うちも)らされたる者十人計(ばか)り、赤裸になりて新府城へ逃れ参じ、高遠落去(落城)の体、一々(いちいち)申しければ、勝頼を初めとして各々(おのおの)仰天少なからず」
そうある。
ーああ、盛信!…
激しく唇をかみしめたのち、勝頼はうめくような声でそう呟いていた。母こそ違え(盛信の母は油川氏)勝頼は誰よりもこの弟が好きであった。高遠城が織田軍に包囲され、総大将の信忠から、
「無駄な抵抗はやめて、すみやかに降伏せよ、さすれば所領安堵の上、黄金百枚をそちにやろう」
そうすすめられた時も、冷ややかに笑い、
「この城には、そんな臆病な者は一人もおらぬわ。父信玄以来の、武田軍団の本当の強さをお見せするから、存分にかかって参れと、帰ってそちの主人にそう伝えよ」
と、信忠からの使者を追い払った盛信。木曽義昌や穴山信君など、頼りにしていた身内が次々と信長へ寝返る中、最後までこの勝頼を見捨てず、義を貫き通して散って行った盛信…、そう考えると、勝頼の両眼から、すうっと涙が滴(したた)り落ちた。
ーだが、そなたの死は無駄にはせぬ。
気を取り直した勝頼は、翌朝卯刻(うのこく=午前六時)築いたばかりの新府城に火を放つと、兵千人ほどを率いて、岩殿城(いわとのじょう=山梨県大月市)を目ざすことにした。この城は桂川の北岸、標高634メートルの岩殿山の頂を中心に縄張された堅城で、しかも城主の小山田信茂は、信玄時代からの譜代家老で、信玄の手紙の草案、解読を行う、信頼のおける男であった。それゆえ、勝頼は、その堅城と信茂に、最後の望みを託したのである。
けれど、勝頼とその家臣たちの行く手に待っていたものは、思いもしない、信茂の裏切りであった。信茂は甲州道中(現在の甲州街道)最大の難所と呼ばれた笹子(ささご)峠で、勝頼一行が来るのを待ち(なぜなら、勝頼に岩殿城行きをすすめたのも、この信茂であったのである)鉄砲を撃ちかけて来たのであった。
ー謀(はか)られた!
と勝頼は思ったに違いない。やむなく勝頼は、その場を逃げるしか方法はなく、今度は妻の実家(彼の二度目の妻は、北条氏五代目当主、氏政の妹)を頼るべく、小田原に赴こうとするのだが、天目山田野(てんもくざんたの=山梨県韮崎市)に至った時、織田軍の追撃を受けた。その数およそ二千。対して勝頼の周辺には、すでに四十人ほどしか残ってはいなかったのである。勝頼の命運が尽きた一瞬であった…。
こうして、天正十年(1582)三月十一日、勝頼・信勝父子と妻北条夫人は、当地で自刃して果てた。(掲載した4番目の写真は、その三人が眠る場所である)
『甲斐国志』には、
「武田勝頼大いに奮戦して死す。河水血を流す事、三日止まらず」
とある。河水とあるのは天目山西部を流れている三日川(みつがわ)のことで、その名の由来も、血が三日止まらなかったことによると伝わっている。このようにして、信虎以来戦国大名として名を高め、信虎ー信玄ー勝頼と三代にわたって甲斐・信濃を支配して来た名門武田氏は、あえなく滅び去ったのである。
今こうして、勝頼妻子の墓の前にたたずんでいると、戦国時代のはかなさが、ひしひしと胸に迫って来る。そしてその瞬間、
「諸行無常の響きあり…」
あの『平家物語』の有名なフレーズが、私の脳裏に浮かんでは消えて行った。あたりにはただ、のどかな春の陽がいっぱいにふりそそぐ、ある日の午後のことに過ぎないのだが…。
(2017年3月4日:配信)